「汚れた英雄でね、一ヶ所だけ本当のシーンがある。北野晶夫がレース前、
たった一人で真っ暗い部屋にいる。ジーッと孤独に耐えて、集中して、
ゆっくりとつなぎのファスナーをあげてゆく。そして、立ちあがって、
バーン、とドアを開くとそこは目映い光と大歓声のサーキット・・・・。
あれは本当だ。あの瞬間がたまらないんだ・・・・・。」
胸を切り裂く、レース前の緊張と恐怖。
その妖しさは全く麻薬と同じだ。ライダーをハイにして、そのたび肉体をむしばむ。

「それじゃあ、次ウィロースプリングスのサーキットで・・」とぼくが言う。
「ああ、俺の”天才”を見せてやるよ。楽しみにしてな。いいかい、これは
男のロマンじゃないよ。夢じゃない、現実なんだ」
二人はそれぞれの台詞を言い終えると、お互いなぜかしら微かに照れ笑いを浮かべた。
二人とも、心の底では自分たちが演じる芝居に気が付いていたからだ・・・。

「じゃあ、また」ぼくは右手を軽く上げた。
さようなら、とは言わない。ライダーに別れの言葉は禁句だ。
大きくため息をついた後、史朗が無言で右手を差し出した。
ぼくもゆっくり右手を伸ばし、静かに握手を交わした。
一呼吸おいて史朗が口を開いた。
「さようなら」
史朗は呟くような声で、そう言った。さようなら、史朗が確かにそう言った。
芝居は終わった・・・・。
やっと史朗は「さようなら」と言えた、のかもしれない。
さようなら天才・・・・。
搭乗口まで歩いてふと後ろを振り返ると、嬉しいような哀しいような、不思議な
微笑を浮かべて史朗がこちらを見送っていた。