倒産した旧新東宝の「新東宝撮影所(東宝第二撮影所)」は日本大学商学部に
敷地の三分の二を売却したが、残った三分の一の敷地が現在の東京メディアシティ
(国際放映スタジオ)となった。

「新東宝第二撮影所(東宝第三撮影所)」は、すでに大蔵貢の富士映画(後の大蔵映画)に譲渡されていた。
大蔵映画撮影所となるが、1966年(昭和41年)10月7日 撮影所の一部を閉鎖、レジャーランドの「オークラランド」となる。

旧新東宝の系譜を引く新東宝映画と大蔵映画の両社が、現在もピンク映画を製作興行しているは面白い。
ただ、このままだとピンク映画の製作も何時まで続くか判らないな。将来は、AVソフトメーカーになってしまうかも。

>新東宝が東宝と縁を切って自己配給するようになったが、経営が傾いて倒産した。

東宝は争議沈静後に自主製作を開始し、ハシゴを外された形の新東宝の佐生社長は、
自主配給の開始を宣言して東宝と袂を分かったと言う事になっているが、東宝は
引き続き新東宝の大株主だったし、東宝と関係の深い後楽園スタジアム(社長が
小林一三の異母弟)が新東宝に資本参加している。

1955年(昭和30年)東京の大手映画興行主・大蔵貢が、新東宝の定期株主総会に
株主として出席し経営に関する意見を開陳した。これに新東宝の大株主で後楽園
スタヂアム社長で、東宝社長の小林一三の異母弟で「関東興行界のドン」と目さ
れた田邊宗英が同調した。

こうして大蔵は社長に迎えられ、事実上新東宝を買収する。
この件でも東宝の影響力が、少なからずあったと言われる。