水掛け論になりそうだから、もう反論しないけど、
>>461の最後の二行は同感だな。

「民暴の帝王」を丸の内東映で見ていた時、驚くべき光景に出喰わした。
最後列の中年男性客が、何と非常灯の明かりでスポーツ新聞を読んでいた。
「そもそも映画館に来なけりゃいいのに」と思ったんだが、暴力場面になると急に身を起こし、
スクリーンに見入っている。暴力場面が終わると、視線をまたスポーツ新聞に。
あの映画、終始、金の話ばかりしていて、ヤクザ映画らしいカタルシスがない。
スポーツ新聞の男は後半には飽きて、遂に退場してしまった。

ヤクザ映画に客が入らないからって、当時の伊丹映画で注目され始めていた社会派路線を取り入れた結果がコレだ。
岡田親子は、80年代アニメ・ブームの後は、何をやってもダメダメ、迷走していることは確かだし、
それは「活気があった活動屋時代の古臭いアタマ」でそのまま押し通そうとした岡田父の責任であることは確かだ。
その点も踏まえた上で、岡田茂は最後の活動屋だったと思うね。