この時期になると、世界のお騒がせ機関の「ノーベル賞財団」の「世界のお騒がせ期間」となる。
それもやっと終わったようである。今回のものもそうだが、ノーベル賞は「(物事の)発見や発明や応用」に
与えられるものだから、「(物事の理論的)説明、解明、証明、究明」に与えられるものではない。

それゆえ、かのアインシュタイン博士の場合も、「ブラウン運動理論」や「相対性理論」や
「ボーズ?アインシュタイン凝縮」ではなく、「光電効果」にノーベル賞が与えられたのである。
したがって、物事を理論的に究明することがノーベル賞の目的ではないのである。

だから、だれかが運良く発見すれば、結果的に他のだれかがその現象を究明したとしても、
その人は二番煎じということになってしまう。ここにノーベル賞型の、19世紀ロスチャイルド型/ロックフェラー型の
自然科学認識法には誤りが潜むのである。

我々科学者は「自然を理解するために日々活動している」のである。だから、必ずしも発見の一番、
二番を競うために行なっているのではないからである。むしろだれが一番最初に解明するか、
正しく理解するか、ということの方に主眼があるのである。

ところが、数学の世界は面白いことに、この点が「ノーベル賞型の自然科学観」とはまったく逆になっているのである。
言い換えれば、数学では「だれが一番最初に証明するか?」を競っているのである。
「あたらしい概念をだれが提出したか?」も大事で、それもさることながら、何よりも大事なことは、
その概念や定理が「正しいかどうか?」なのである。だから、だれかが一々証明しないかぎり、一歩も前進できないのである。

したがって、「19世紀ロスチャイルド型自然科学観」と数学世界はほぼ直交しているわけである。
だから、ノーベル賞に数学がないという1つの理由として、こういう本質的な事情があるのではないかと
私個人は見ているというわけですナ。