「只」吐き、「只」吸うだけ。
一瞬一瞬を大切にして「只」やる。
どんな事も「只」やる。
呼吸の一瞬一瞬のみ。
呼吸の一瞬が続けられれば、自然にすべてに一瞬一瞬のみにできる。
その物と離れないでやれるようになる。
こうなれば大したものである。
ここまで来ねばいけない。
常住不変に一瞬一瞬でなければいけない。
それには涯際が付くまで常住不変に練らねばいけない。
自ずから成るようになるまで練らなければ、本当の安楽も無いし、生死の不安からも救われない。
願心はあっても、やらなければ駄目である。
相手や環境である境に用はない。
とにかく願心である。
自分の好きな事に時を過ごしてはいけない。
その場その場のみであること。
自分の考えなど入れず、その時のみに成って一心にすこと。
初めはどうかしようとするが、それが要らない。
その場その場のみに任せておく。
その事のみに「心」を置いてする。
常に、そう努力していると、自然に「隔て」が取れていく。
「只」やれる。
何事も淡々とできる。
「只」が純熟してくるから自然と全てと一つに成る。
本当に熟して徹する。
そうしないと大自覚が無い。
これが「悟り」の大事であり証明である。
ここで本当に納得する。
だから悟りを目指して「今」「只」やる。
無目的の坐禅は知らん間に妄想坐禅となり、ぽかんとした腑抜け禅になるから注意せよ。
どうしても本当の菩提心が無ければ邪禅になり、多少の落ち着きが有っても、損得など邪念は一向に取れない。
無明の根本を解決しなければ坐禅修行する意味が無い。
菩提心、菩提心。