道元禅師が身心脱落で体験されたように、即今底の自覚が必要である。
一旦、即今底の自覚がないと只がわかりませんからね。
そこから、真の只に徹する修行が始まります。
単を練り続けた結果が只です。
単とは一つです。
一つの事を練り続ける、つまり息なら息だけをします。
これが単を練るです。
歩くときは歩くだけをするのが動中の工夫です。
単を練ると言う点においては、坐禅と動中と全く同じです。
禅の極意とは、ひたすらに単を練る事です。
何もしてない時は、息を練ってればいいです。


悟る前は悟りを目的とし、悟った後は悟りを忘れる事を目的として修行しますが、実際にやる事は単を練るだけです。


よく、悟りを目的とした修行をしてはいけないと言う人がいますが、何としても悟るんだと言う志しは必要です。
悟ると言う目的の為に一心不乱に修行し、その目的すら忘れて一心不乱になった時に悟ります。


次に、せっかく悟ったのに悟りを忘れるとはどう言う事か。
それは、自分は特別な人間だと他を見下したりして、自他の分別が出来てしまうからです。
あらゆる分別のないところに持っていく為に悟りを忘れる必要があるんです。


悟りについての知識はこれだけ知ってれば十分で、後は余計な知識を増やさないで、この書かれた文章も忘れて、ひたすらに単を練る事です。


それから、栖雲居士、ろん、でおーあたりはすでに手遅れでして、何を言っても効き目がありませので、一切相手にしてません。


こんなところですかね。