特別に愛されているというそれは、果たして思い上がりなのでしょうか。

仏教には浄土教というのがあり、その中の浄土真宗という宗派の開祖であられる親鸞さんは、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」と吐露されたそうですが、奇しくも宗教的な罪の重さの自覚に比例して、その救いもまた強く自身に向けられる様な気がするのですが。