>>664
>とどのつまり、言語による神の
>思惟や議論は、「無限背進」
>「循環論」「独断的な中断」
>のいずれかになるという事
>だと思うんです。

おっしゃる通りだと思います。

論理は必ずその前提を必要とします。
論理は前提の上に組み立てられる
ものだからです。

その論理をどこまでも
追求しようとすると
その論理の前提部分を
新たな 論理で説明する
必要があります。

しかし新たな論理も新たな
前提部分を必要とします。

このように論理の追求は
必ず無限追求となります。

どこかで無限追求を断ち切るしか
無限から抜け出す方法はありません 。

論理の根源は信じることで
終わるしかできないのです。

聖書において信じれる者は
幸いですとあるのは
心理だと思います。