異端論については、とどのつまり水掛け論だろうから此処では提起しませんけどね。

同書で若松英輔さんは「恐怖」「搾取」「拘束」を指摘され、更に釈徹宗さんは(ちと長い引用だけどお許しを)


私はカルトと宗教を考えるときに、各宗教集団がどれほど対話可能かという点が重要だと思っています。

宗教間の対話が成り立つかどうかが、カルトと宗教を見極めるための一つの目安になり得るんです。

絵画で景観を捉えるときの手法として、「近景・中景・遠景」というものがあります。近くのものを描くときは近景、遠くのものを描くときは遠景、そのあいだを描くときには中景。そのように景観を区別するんですね。

これを宗教の構図に当てはめてみると、「私自身」の問題は近景で、遠景には「聖なるもの」「聖なる領域」というものを設定することができます。

その聖なるものと私自身とが直結するのが宗教体験と言われるものです。その私自身と聖なるものとのあいだ、つまり中景に、文化や地域コミュニティなどの中間領域がある。

宗教は、それらのバランスを取ることを考えなければならないんです。カルトや原理主義と呼ばれるものは、中景がとても痩せていて、私自身と聖なるものとが直結してしまう。つまり、日常としての中間領域がすごく軽視されて、その結果、中景が痩せてしまっているのではないかと思うんです。

宗教間の対話は、中景がある程度分厚くないと成り立ちません。宗教には、それぞれが倍じている遠景を主張するだけだと、決して折り合わないところがあるからです。

ですので、宗教間の対話が可能かどうか、中景を大切にしているかどうかという点は、問題のある集団を見極めるための重要なポイントになるのではないかと思います。