>>382
お久しぶりです

わたしは以前から話している通り、旧約の神とイエスの父は同一という立場ですが
ひとまずそれは置いておいて、キリストセントリックに考察することは重要だと思います
というのはここにいる人は立場は違っても、まずイエスの言動をそれぞれの中核的な価値を
表したもの、あるいは関心の焦点として受け入れているからです

ヘーゲリアンな図式で言うと反あるいは対自は絶えざる止揚の果てに絶対精神、簡単に言えば神に至る
契機ですから、実は悪の善への転化という発想はピッタリヘーゲル的な図式に収まってしまいます
ですから琴さんのように悪はアンチテーゼという「動き」、つまり止揚の契機をもたないものであるという
定義はとてもユニークで面白いと思います

そのこととは別に、わたしが鹿野園さん?にレスしたのは、アウグスティヌス型と言われる神義論および悪の定義が
形而上学的にあるいは論理的に悪の問題を解消するにもかかわらず、それはむしろ
われわれが実態的に感じ実存的に苦しんでいる悪の存在とその理由を無化してしまうと危惧するからです
これはなにもわたしの個人的な思いというだけではなく、実際に神義論はその抜き差しならない悪(苦)の
リアリティがあるからこそアウグスティヌス的回答では終止符が打たれなかったという経緯があります
むしろ終止符を打ってはいけないとさえ言えるでしょう

わたしは神義論にキリスト教的枠組みで理性的な答えが出るとは思っていません
にもかかわらず、なぜ全能でまったき愛、まったき善である神のもとで悪の存在は許容されているのか
について考え続けることはキリスト教徒のみならず、実際に日々悪や苦と向き合わざるを得ないひとりひとりに
とって、重要なことだと思います
なぜならばわれわれがそもそも宗教に関心を持つのは、この悪しきもの、この苦しみという自分自身が
直面している実態的な悪や苦からの救いを求めるからであって、この問題を除いては
宗教の存在意義がなくなるからです

この問題は論理的な(形而上学的な)問題であると同時に実存的な問題でもあるがゆえに
実態的に感じる悪、強いて言えば実存的な悪の存在について思考しなければ
神義論は単なる神の正当化という陳腐な護教で終わってしまいます