>>927
>・祈った時は既に叶えられたと信じなさい

私もいったいどういうことなんだ、と。
こういうことではないのか、のいち考察?をかいてみます。
 
彦一の火吹き竹のいわゆる
「天狗のかくれみの」の小話をつかって
こんなことなんじゃないかな、と、昔から考えていることがあって・・。
的のど真ん中の考察ではないけれども、
なんとなく、遠からずの考察?といいますか。

彦一の火吹き竹を望遠鏡のようにして覗いている。
天狗は俺にも覗かせてくれと頼む。そして火吹き竹を覗く。
なにも見えない。失望する。透明化する隠れ蓑のくだりはカット。

キリスト者は、とくにカトリック信徒はよく祈る。
祈ってない人は祈ってなんになる、祈りはいいものなのか?
そうは思わない、と言いつつも、
祈りたくなって、火吹き竹を覗きたくなって、祈ってみる。
ところが、期待したものが叶うとも、叶ったとも思えない。
なんにもならないじゃないか、と失望する。

ここで

なんと、彦一も天狗も、祈る人も祈ったことがなかった人も
気づかないことが、叶えられているのではないのか。
という考察?

つまり、火吹き竹で何かを見ようとした、何も見えなかったものの
なんと、火吹き竹を持ち上げている二の腕の筋肉が鍛えられた等々。
 祈って、その祈りの内容そのものが、叶えられることは
なかったように思えたものの
なんと、実は祈るその人が、心の奥深くで望んでいること。
霊魂が磨かれることが、叶っているのではないか、と。