>>547 。。。続き
律法の裁きも、十字架の贖罪も、
その目的は、どちらも、
人に罪を犯させないためのものです。

目的は同じですが、手段が異なるのです。

律法の裁きは、裁きの恐怖によって、
人に罪を犯させないようにします。

これに対して、十字架の贖罪は、
自分の犯した、犯そうとする罪が、
十字架上のイエス様を苦しめる、
結果と成ることを知ることで、
人に罪を犯させないようにします。

なぜ人が犯した罪が、
十字架上のイエス様を苦しめる結果と、
成るのでしょうか?

それは、イエス様自身が、
次のような、世界の創造者だからです。

『初めに言があった。言は神と共にあった。
 言は神であった。この言は初めに
 神と共にあった。すべてのものは、
 これによってできた。 』

被造物である人が、
罪を犯すということは、
すなわち、創造者であるイエス様を、
苦しめる結果と成るのです。

神とイエス様は自我と自由意志を
持った人を創造し、愛されました。

神は神の命令しか実行できない、
自由意志の無い、ロボットとしての人を、
望まなかったからです。

そして神は、人がその自由意志を用いて、
神と人とを愛する存在となって、
ほしかったのです。

しかし人は自我と自由意志を持つため、
神の御心に反し、罪を犯すことが、
できるようになってしまいました。

ですから、神は人に対して、
人が罪を犯すことが、神の御心に反し、
創造者である神を苦しめることだと、
教える必要があったのです。

それを教えるため、
イエス様は人類全体の罪を背負い、
十字架の贖罪の苦しみを忍ばれました。

。。。続き