イエス様は我々人類の罪の「ために」十字架に架けられた。
のこの「ために」という部分なのです。
ここの解釈。

我々の罪がイエス様を十字架に架けた、という「理由」
ととるのか。
我々の罪を取り除く「ために」、罪を引き受けた
と解釈するのか。

そもそも、十字架刑は、父である神の罰なのか?
人間がした刑罰であり、その刑罰が父である神の罰とは
ならないのでは、だの。

父である神の罰でないならば、イエス様が十字架に
架けられたとて、我々の罪は取り除かれることにはなりません。
責任を引き受けられたことにもならないのです。

coinさんの例え話では、上司が引き受けた責任。
この責任を問うたのが、なんと父である神ではなく、
人間が問うた責任(十字架の罰)でしかないなら、
どうなるのか、という。

私も迂闊なことを口走るわけにはいかず。
デリケートゾーンですよ?ここは。