>>30
それと、プロテの信仰義認について、ですが
もう何度も説明しています。
パウロの信仰と実践をユダヤ教徒のあり方、感覚を
知らないクリスチャンは、安易な解釈をしています。

パウロの言う信仰は、律法主義に対してVSの神との
直接関係をいっており、そこにおいてはじめて
愛の実践が自ずと、ともなうだろうという、
シフトさせた考えなのです。

こういう感じでしょうか。
D(律法主義)はⅮ‘の律法主義に基ずく実践になる

A(神とその具体への隣人愛への直接関係による信仰心を
基盤にする)とA`(それに伴う実践内容が変る)

パウロもここまでは気づかれたようです、
しかしユダヤ教の贖罪観念や女性蔑視など、
それまでのユダヤ社会風習に取り組むには、
課題が大きすぎたように思えます。
割礼の問題は、どうにかこうにかに見えますが、
かなりもめていた様子も伺えますから、
これも同じ神の支配下にあれば、体制突破できないであろう、
あれこれのうちの一つだったのだと思います。
ユダヤ一神教は彼にとって、疑うなどと考えられないのですから、
しかし、そこでの現実的な風習を
否定していかなければならないとしたら、
精神は分裂していき、苦悩に襲われた事でしょう。


キリスト教で鵜呑みで信じられている、信仰義認の
説明はあなたに聞かなくても知った上で
わたしは、掘り下げて言ってきたのであり、
プロテの信仰義認の教条的なものをあなたが
何度繰り返しても、話にならないのは当たり前です。