※大先生は「汚れなく」が解脱でないことを証明していた。

大先生は以前は「心が安定」は解脱でないと
繰り返し主張していたが、最近は「汚れなく」は解脱でないに主張を変えた。
その理由は「心が安定」は三昧、禅定の意味であると指摘され認めざるを得なかったからです。
そこで目立たぬようにコッソリと「汚れなく」に変えた。
この人は他人のアラはしつこく追求するが、自分のことになると、このようなズルを平気でやる。
だが「汚れなく」に変えたところで、それが解脱でないことは、大先生自身が過去に証明している。
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205 :神も仏も名無しさん:2008/11/23(日) 22:21:11 ID:574E+w79

「心が安定し、清浄で純潔となり、汚れなく、小さな煩悩も離れ、 」
をばらばらの内容だと思っているようだが、
「安定」=「清浄」=「純潔」=「汚れなく」=「小さな煩悩も離れ」です。
同じ内容をただ別な表現で繰り返しているだけです。
心が小さな煩悩すらもなくなり、煩悩から清浄になり、煩悩に対して純潔で、
煩悩の汚れがないから安定したのです。
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〉「安定」=「清浄」=「純潔」=「汚れなく」=「小さな煩悩も離れ」です。
このようにはっきり書いていますが
「心が安定」は解脱ではないので
「清浄」「純潔」「汚れなく」「小さな煩悩も離れ」は全て解脱ではありません。
それを自分から見事に証明してくれた。
これで深山説は足下から崩壊です。