専門学術用語、テクニカルタームを駆使しただけで理解した気になっては駄目だよ。
抽象的な用語を自分の頭で誰でも理解してもらえるようにわかりやすく具体的に説明できなければ理解したことにならない。
望月佛教大辞典なんてものに対していつまでも権威にひれ伏していてはならない。
望月佛教大辞典が間違っているわけではない。
少しも間違っていない。
ただその表現が抽象的であるがゆえのあなたのようなとんでもない余計な誤解だって生む弊害だってある。
だから岩波仏教辞典のようにそれよりも新しく編纂された辞典は、それを避けるためにも
抽象的な表現を避け、端的に表現するように敢えて心掛ける。
個人の考えではなく編集委員の協議により。
その結果、漏尽智は煩悩(漏)が尽きてなくなったことを知ることとされ、
その前提となる煩悩を少しずつ減らして無くしていく前提の営為は表現する必要がなくなる。
それを表現することによって煩悩を無くする行為もこの智慧に含まれると誤解されるならば
この前提は敢えて表現しない方がよい。
表現しないということは、あくまでも漏尽智は煩悩が無くなって解脱を成し遂げたことが
観察により真理として確認できたことであり、
その真理は正しかったと認識されたことだけと示したことにほかならない。
ゆえに證知なわけです。
四諦の生活実践がこんな最後に初めて実践されたものと思うか?
滅諦の具体的方策である道諦をシュダオン以前の昔から実践したから解脱を得たのであり、
解脱を得たから、四諦は真理と証明されたのです。