「身心脱落」は、まぁ道元さんの私的言語なのでしょうが、中国の記録を見ると「心塵脱落」になっているし、その方が大乗仏教の「客塵煩悩説」と合致するので、道元さんのオリジナルであろうと言われてますね。

で、無自覚の自覚がその「身心脱落」かというとやっぱり別物でしょう。

無自覚の自覚も無意識の意識も無認識の認識も、対象化されてなかったの自覚であって、無の自覚ではありましょうから、大事な体験である事は否定されませんけど。