更に須菩提長老は続けて、
 自分がこの経を受け容れて理解するのは難事ではないというのじゃ。
 後の五百年になってこの経を受け容れて記憶して理解する者こそわしよりえらい、とかいうのじゃ。
 
 何故ならばそのような人は前述の自己認識の四つの観念がないからなのじゃ。
 それらの観念すらもないというのじゃ。
 一切の観念を離れたものが仏陀であるからなのじゃ。

 つまりこの経を受け容れて、理解できるようなものはもはや悟っているというのじゃ。
 悟っていなければ理解できないというのじゃ。
 一切の観念がない仏陀であればこの経を受け容れて理解できるというのじゃ。
 そうであるから自分よりも偉いと須菩提長老はいうのじゃ。

 本来、経とはまだ悟っていない修行者のためものじゃ。
 悟っていない者たちが経典を学び、実践して悟りを目指すのじゃ。
 悟ってしまえばもはや経典はいらないのじゃ。

 しかし、この経は悟っていなくては理解できないというのじゃ。
 それでは修行者はどうすればよいのか。
 理解できなくとも悟っていない者達はただひたすら信仰によって、実践するしかないのじゃ。
 実践することで観念の切断を学び、身につけ、全ての謬見と煩悩を断じて進むのじゃ。