>>670
ついでにもう1つ、別の話で補足します
最後です


念仏者は、すでに救われている、
という話がありますよね?

これは、「業にタッチしなくてもいいよ」 と言っているのです

すでに救われているという「信」があれば、どんな不幸が起こっても、
どんな不都合なことが起こっても、
すでに救われているのだから、そのまま、ただ、念仏をすればいいわけです

「信」があるから、切り離せるわけですよね?

業を、ああしよう、こうしようとせず、すでに救われている自分から切り離す・・
業をそのままにタッチしない
これは、業の受容ということになります


親鸞が災害に見舞われた村を通りかかったとき、最初はこの村の人々のために、
経を何千部も読誦しようと、誓いを立てます
経を読むことによって、村人をなんとか救いたい・・・ という気持ちが現れていたわけですよね

ところが親鸞は、途中で経を唱えるのを中断し、その場を立ち去ったのです

切り離したわけですよね、業の世界を

それはそのまま、村人たちの苦悩を受容したということです
どうこうしようとしない
どうこうしようと、思考分別の力を一切働かせない
苦悩そのままに、タッチしない

切り離すところに救いがあるわけですよね
切り離さないで関わること・・・
思考分別が介入するところに、不幸があるわけです