>>898
こんばんは。

「行住坐臥全てが坐禅」の中にあるいはテレビを入れても良いのかもしれませんが、私にとっては、テレビはつまらない番組が多いのであまり見ない、ただそれだけなのでした。

>雑念なんてものは、生じないし、滅しないし、観察することもホントはできませんよ。。w

それには観自在菩薩のように深淵なる般若波羅蜜を完成させて五蘊皆空と照見して一切の苦厄を度して悟りの世界に入らないと、ですねw

凡夫にとっては、雑念のような苦(思い通りにならないもの)は

一 苦しみは<(苦しみ)自らによってつくられたものである>(自作・じさ)、<他によってつくられたものである>(他作・たさ) 、<両者によってつくられたものである>(共作・ぐうさ)、 <無因である>(無因作)と、ある人々は【それぞれ】主張する。しかるにそ【の苦しみ】は結果として成立するというのは正しくない。
(「中論」第一二章 苦しみの考察)

これは相応部経典12、17でブッダが説いたことを中論でまた論じているわけですが、私も苦は因つまり縁起によって生じるもので、勝手に湧き上がってくる雑念も何かの因があって生じているものと思っています。

法然
「経典にはさまざまな教えが説かれているが、詮ずるところ、戒・定・慧の三つの修行法に集約される。小乗と大乗、顕教と密教、それぞれにこの三つの修行方法がある。
ところが私自身は、戒(不殺、不盗などの仏教の戒め)に関しては一つの戒すら守ることができない。定(精神集中の修行)についても一つも体得できなかった。
ある高僧が言うには、「戒(インドの言葉でシーラ)が清らかに守られていないと、心の集中状態は現れてこない」とのことだ。
また私たち凡夫の心は、ものごとに引きずられて移ろいやすい。それはまるで、猿が枝から枝へと動いているようなもの。まことに散乱して落ち着きが無く、一処に静まりがたい。
このような状態で、煩悩に汚れぬ正しい智慧が、どうして起こり得るだろうか。
もし汚れなき智慧の剣がなければ、どうして悪業や煩悩の絆を断つことが叶おうか。悪業煩悩の絆を断たずして、どうして迷い苦しみの輪廻世界から解脱することができようか。
ああ、まことに悲しき哉、一体どうしたらよいのだろうか。」

比叡山一の智慧者と言われた法然をしてこうですからね。
もっとも私はそこまで自身を追い込んだりは全くしていませんので、「ああ、まことに悲しき哉、一体どうしたらよいのだろうか。」とまではならないですけどね。所詮は一在家ですから…。