>>278
老荘思想でブラフマンに当たるのが「道」、違いはブラフマンは有ですが道は無というところがまず挙げられますでしょうか。

そして、心を虚にして、無心になりきることで無たる「道」と合一した者が真人と言われます。
老荘版の梵我一如思想みたいなものですね(超越したものとの合一による悟り概念は世界各地の宗教に見られますが)

臨済が説法で述べた、「赤肉団上(しゃくにくだんじょう)に一無位の真人有り、常に汝等諸人の面門(めんもん)より出入す。未だ証拠せざる者は、看よ、看よ」の無位の真人もひょっとすると道教の真人から来ているのかもしれません、同じ中国だけに。
でももし、そうであるならば、無位の真人は仏教よりもヒンドゥー教の思想に近くなりますが・・


ちなみに道元は正法眼蔵の四禅比丘の章で仏教が儒教や道教と一緒くたにされていることを批判したりしていましたw

大宋の嘉泰年中に、僧の正受という者が普燈録三十巻を著し、天子に奉って申し上げるには、
「臣が、孤山智円の言葉を聞くところによると、彼は、「私の道は鼎に似ている。仏教、儒教、道教の三つは、その三本の足のようなものである。その一つでも欠ければ鼎はひっくりかえるのである。」と言われました。
臣は、以前にその人を慕ってその説を考察し、そして知りました。それは、儒教の教えの要旨は誠意にあり、道教の教えの要旨は虚心にあり、釈尊の教えの要旨は見性にあるということであり、又その誠意と虚心と見性とは、名称は異なっても本体は同じであり、その帰着する所を究めれば、行き着くところはこの道と合致するのである、云々。」と。
大宋国には、このような僻見や我見の出家者ばかり大勢いて、ただ智円や正受だけのことではないのです。この者たちは、四禅(第四の禅定)を得て四果(阿羅漢)を得たと思う者よりも、その誤りは深く、仏陀を謗り、仏法を謗り、僧団を謗ることと同じなのです。
このような考えは、もはや解脱を否定し、過去 現在 未来の三世を否定し、因果の道理を否定しているのであって、限りなく多くの災いを招くに違いありません。これは仏法僧の三宝や苦集滅道の四諦(四つの真理)、聖者の四沙門(四種の出家)などは無いと思う者たちと同じなのです。
また仏法は今まで、その要旨が見性(自己の本性を見ること)であったことはありません。釈尊までの過去七仏や、その法を伝えたインドの二十八人の祖師の中で、いったい誰が、仏法とはただ見性だけである、と説いたでしょうか。
(以下略
http://www.dogen-shobogenzo.com/sizenbiku7.html

と批判を続けているわけですが、要は儒教や道教は一代限りの断滅論の教えであり、三世を知らず三世に渡る因果業報も知らないので人を救済するには不完全な教えである、
小乗声聞の教えにも及ばないし、インドのバラモン十八大経にも及ばないものであり、その四種のヴェーダの典籍に匹敵するものではない(天竺の十八大経におよぶべからず、四韋陀(シイダ)の典籍(テンジャク)にならべがたし)としておりました。

あはれむべし、振旦(シンタン、中国のこと)小国辺方にして、三教一致の邪説あり。

道元からみると中国は小国辺方の地であると、、、まあインドと比べたらの話だと思いますがw