認識するものが認識されえないとしても、あると認めたら、無我じゃない。。

認識するものも無常で、無自性で、絶えず移り変わっている、縁起によって。。

したがって、認識内容も、それにつれて移り変わる、仏教の教説然り、古今東西の思想哲学然り。。

だから、そんなものを学んで、理解することで、何かがつかめると思っているのは迷いですよ、
というのが禅だね。。
もちろん、勉強自体は否定しないけど、根本はそうなんだよ。。

主客共に失せる、ということあって初めて本来人。。