そうでもないかもしれん。

禅で言えば「悟った」という表現を下記の言い方をすることがある。

”私は悟りは分からないし知らない”
禅修行の果てにこういう表現になるから世間の人間には
本当に悟ってないのではないかと思えてしまう。

先ず私というのがあくまで俗諦上での私と言ってるだけに過ぎず
悟りは分かるものでもないし知ることでもない。
なぜならこの真如法界に於いて自分を分かるということもできないし、知ることもできないから。
知らぬが仏で娑婆では一般的であり、禅籍を尋ねても
自己は諸仏なりと覚知することをもちいずや、達磨不識など祖師が
いくらでも教えてくれているので理解して覚えれば誰でもこう言える。
重要なのはそれが理会なのか無理会なのかだ。
要するにただ頭で知ってそういうことを言ってるのか、
体験の上でそれを知ったのかの違いがある。

本当に分からない、知らないというところまで修行に於いて達したのであれば、
必ずといっていいほど”分からない””知らない”を体現するであろう。
そうでなければ頭で覚えたこを言ってるだけである。