あくまでも顕教的な視座からの見解ですけど、言語により構築された世界を虚妄と見做すのが仏教的な視座でもあるので、その虚妄性からの解脱の実践(≒言語により構築された世界の破壊)に、呪、即ち無意味性の言語(非言語の言語)を用いるのは有効な手段という事でしょう。

かかる意味に於いて、真言も称名も題目も公案も類似性があると思います。

また、言語により構築された世界の破壊ですから、そこに過剰に依止してる方にはW刺激的なW事になりかねないという事です。