わたしの自我が、釈尊の自我をみるという、自我認識世界の視点であればそうです。

わたしが完全に慢を滅ぼして、自他の境界がなくなった時、坐禅の最中に限らず日常
生活の最中においても完全に無我に達した時、現法涅槃に達した視座がどういうものか
それは分からない、という意味です。