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https://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/909eb5f3d8f6a9655b4c1ae4f3083051
『正法眼蔵』「古鏡」巻に見える磨三時
務州金華山国泰院弘瑫禅師、ちなみに僧とふ、古鏡未磨時如何。師云、古鏡。
僧云、磨後如何。師云、古鏡。
 しるべし、いまいふ古鏡は、磨時あり、未磨時あり、磨後あれども、一面に古鏡なり。
しかあれば、磨時は、古鏡の全古鏡を磨するなり。
古鏡にあらざる水銀等を和して磨するにあらず。磨自・自磨にあらざれども、磨古鏡なり。
未磨時は、古鏡くらきにあらず、くろしと道取すれども、くらきにあらざるべし、活古鏡なり。
おほよそ鏡を磨して鏡となす、甎を磨して鏡となす、甎を磨して甎となす、鏡を磨して甎となす。
磨してなさざるあり、なることあれども磨することえざるあり。おなじく仏祖の家業なり。
    『正法眼蔵』「古鏡」巻

仏の家業である。
内容よりも、この言葉が気に入ってしまったことを覚えてます。
更に古鏡を調べていた時、ある論文に仏が修行する文章が載っていたので、
わけわからず、感動しました。

以前、古鏡をパーピマンのところでやっていたら、おん出されたのを思い出したw