密教のブログをみていたが、

人間の立場から、実体論的に悟りというものを考えたときには、
永劫の未来、三劫の未来においてしか仏になれないという方向性を、
辿るべくして成り立ったのです。

さて、その実体論を実体論のままに逆転させたのが「密教」なのです。
こんどは、仏の立場から、悟りの実体論を展開したわけです。
つまり、生死即涅槃ということを、涅槃のほうから展開したわけです。

私も仏典を無心の立場から展開しているのじゃないかと思っている。
それを確かめる作業でもある。

>生死即涅槃ということを、涅槃のほうから展開したわけです。
では、煩悩即菩提も同じことが言えるのでないだろうか?