真理は言葉で表せないところにある
言葉で表せないのに必死に言葉にしようとする
難字が増える
その言葉の解釈で衝突が起きる
そうなれば教えではない
仏教はそんな状態だ

本質を見よ
イメージで捉えよ
イメージは言葉以上に広い
言葉はコミュニケーションに使うものだ
言葉は表現は狭く断片的である

経典など燃やしてしやまえ

見つめるべきは正しいか?ではない
結果がどうなるか?だ
因果を見よ
正しいか?は価値判定
価値観の共有により実現する
しかし価値観は移ろう
価値観違えば正しいか?の議論すら成立しない
価値観を共有して生きるなら戒律や誓いが必要なだけ

価値観の多様化を認めている現実においては、全ての人が共有出来る価値観などない
価値観違えど目的を共有出来る理屈があるだけだ
もちろん目的も共有出来ない程全く合わない事もある
価値観は環境、置かれてる立場により変わる
環境、置かれてる立場が同じだと価値観は共有しやすい

このスレで繰り返されるのは、言葉の解釈のすれ違いによる不毛の議論

見つめるべきは本質
だいたい合ってればokの許容が必要

空想は共有出来ない
現実を通して因果を見て現状を共有してこそ議論が進む
行動をもたらす結論を得るには現状の共有が必要

見つめるべきは現実
言葉ではない