>>204
佛教ではいろいろと説かれるが
大学一回生に時に習った最初は、
感官を背景とする前五識と同じレベルの感覚器官のように説かれる意識としての第六識。
初期経典ではここまでだが、発展した後代の仏教はそこに
マナスという意識を足した。これは第六識と区別がつかないので
末那識と音訳された。つまり増し加えられたわけだが
意識は意識でも、唯識三十頌が「我癡 我見 我慢 我愛」という言うように
我が物とする自我意識のことだ。
簡単に言えば深層にある自我意識だ。
そして発展した仏教はその下に、阿頼耶識を想定した。
この阿頼耶識については様々な立場からの色んな解釈がある。
1.阿頼耶識=無明
2.阿頼耶識=客染されているだけ
3.阿頼耶識の下に第九識がある

ということだが、簡単に言えば、そんなものはない。