碧巌録(へきがんろく)  第76則?丹霞喫飯了 

本則(ほんそく)

ある日、丹霞天然の処にやって来た僧に丹霞は聞いた、「何処から来たのか?」。
僧は云った、「山のふもとから来ました」。

丹霞は云った、「飯は食べたかな、あるいはまだかな?」
僧は云った、「飯は食べおわりました」。

丹霞は云った、「なにもう済んだと。本当はお前さんは何も分かっていないではないか。 お前さんに飯を食わせてくれた人には一体眼があるのかな?」
僧は黙り込んだ。

それから百年ばかり後になって長慶慧稜はこの話をして、弟弟子の保福に聞いた、
「食事を人に供養するのは仏に対する報恩の行為である。 それなのにどうして丹霞は眼が無い(無眼子)と言ったのか?」
弟弟子の保福は云った、「飯を布施し施した者もその供養を受けた者二人とも瞎漢(無眼子 むがんす)だ」」。

長慶は云った、「力のかぎりを尽くし修行しても、かえって片目と成るものかな?」。
保福は云った、「では、貴公は私を片目だというのか」。


〇 大悟小悟、 数知れず、と聞く。
   禅は何を伝えようとするのか。
   真理(さとり)である。
   先にも書いたが、公案は禅宗大弾圧の時代、僧は惨殺され、寺の経本も焼却された。
   中国各地の更に奥地に隠棲した。
   そこで、土地の民謡、里謡に真理(さとり)を託し、門外漢である第三者の役人、村人が聞いたとしても意味が分からないようにした。
   禅の人であれば、なにを問うものかは、自明である。

   残念ながら、丹霞天然の処にやって来た僧は どこ、めし、が何を問うものかがわからない悟前(ごぜん)、未悟の僧だった。

   10年後これが問われる。
   これが正解、これが誤答、と分別するのは、明解だが、正解を握りしめている。
   ありがちな事でもある。
   年を経て、
   苔が覆うわたしには、別の答えが有る。
   さて、その答えとは何か。
   40文字以内で答えよ。配点5点。