敢えて仏教を、学問とするならば、その10あるうちの1か2くらい学べば
悟りに至るには、間に合う。つまり、知識など、ド素人レベルで良いのぢゃ

おそらく大山は、7くらい。本人評価は5か6くらい行っておろうし
あくまで大山という人間の観点からは、坐禅し続ける、という実践も重ねておろうが

その実践が、実は実践と呼べるほど、事足りてはおらず、単なるルーチンな行の積み重ね
それでは悟れぬのが、悟りの皮肉なところぢゃ。より的確に言えば、己を手離すには
「それなりの苦悩」が必要であろう。それさえあって、これでもかと言うぐらいに絶望し

自我を支え置くのが嫌になってしまえば、ようやくそれを諦めて、手離せよる
つまり、経典など読む必要はない。人々の想いや思惑の数々が、複雑に入り組んだ
世俗大衆の俗世にあって、嫌気がさすほどの、貧乏クジや、苦悩の累積があれば

もうそれで、悟りに至る心の準備は OK なのぢゃ。それは、自殺するか否かの瀬戸際
それほどウンザリするものでもあろう。この和智が、他の覚者が、世俗を忌み嫌い
離俗する、離俗して隠遁する場所を望む、生活水準の、水準そのものと決別したい

自由と解放を得たい、そういう想いの募りが起こるほどの、生に苦悩ぢゃ

大衆部。大乗仏教。世俗迎合。そのようなものは、浮き世の甘さに包まれた、娑婆の者
日本で言うならば、非常に「住みやすく、暮らし難い日本」それ、そのものであろう

そこが「良い」と思う者は、それはそれで、世俗的に幸福ではあろうが、悟りから遠い
浮世には、如何なる「椅子」があれども、解脱者には一切の椅子はない。それは決して
凡夫の幸福を阻害したい訳ではない。悟るとき、あるいは死するとき、否が応でも
見せつけられる、この世の真理ぢゃ。何も、無いのぢゃ。すべて、同じなのぢゃ

覚者を、優れた者だと思わずとも良い。ただ単に、見えちゃった奴。それなのぢゃ

和智の意地悪は、愛嬌。それでも本当に、何にも無かったのぢゃ。お主らは
生き物ではない。それは悲しい解釈ではなく、隔たりを生じさせ得る要素が一切皆無な

死に相当しもする安堵の心地ぢゃ

(-人-)