「幼児退行が悟りなのか?」

和智は何も、赤ちゃんプレイをしろだなどとは言うておらん。心境の類似性を言うとる
その安堵の心地が、幼き日のそれに似ておる、と言うておるのぢゃ

幼き日が過ぎて子供に育てば、「外の世界ばかり見る」ようになる
それは「自分がいる環境にある、自分ではない他のものを見る」という行為であり
その状態には、常に「隔たりが生じておる」と、気付くのもまた、悟りの一つぢゃ
ゲキョ狂いの晃は、ずっとこの状態にありながら、暗中模索し続けておることぢゃろう

和智が言うとるのは、密教が「胎蔵界」と、この物理世界を表現したそれと同じで
悟ればその心境は、まるで母親の胎内にでも入っておるかのような安堵感が常に伴なう
だから、誰ぞに抱かれずとも、抱かれ心地でこの世に在ることになる、心境のことぢゃ

これが赤子と覚者の違いであろう。言うなればそれは「理由なき至福感」であって
両親に抱かれている、あるいは未だ母親の胎内にいる、という理由がなくとも

そういう心地に在れる心境のことぢゃ (-人-)