悟りまでの道のりは、「それは道無き道」であったと気付かされて終わることになる
それを人の一生において、その途中で悟るまでの過程を書くならば

先ず幼い頃は、誰しもが「無垢」であった。この「垢」というのは、善悪の悪ではなく
「思い」であることに気付くのも、悟りの一つであるが、幼い頃はそれを知るのは早い
が、幼い頃ほど悟りに近い状態にある。心は素直で、疑いという先入観なく人を見て接し
昆虫などを食べて親を困らせ、動物の死骸とヌイグルミの区別もつかずそれを抱いていた

悟りに至れば、「初めからこの世に抱かれて暮らしていた」と知り得る事になるが
幼い頃は、その様子が顕著で分かり易かった。求めるものがあれば泣き喚けばよく、両親がいつも自分を抱いてくれた
色々なものに興味を示し、それを手に取った後は、座る両親の膝に腰掛ける、安堵の心地

このような状態から始まる、「自我の形成段階」と、若き日の「自己実現への努力」と
「挫折の経験」と「人生への自問自答」。そして「苦悩が累積する日々」へ至り
その流れでの「仏道への誘いと精進」。そして「解脱」に至るまでが、悟りの道であり

結果的には、その道は、「道無き道」であったと知るまで、心が右往左往する過程が
「凡夫の生涯」となり、まだ生命あって寿命が尽きておらずとも、悟れば、それは
凡夫の生涯が「死」によって幕を閉じることになる。その死は決して悲しいものではなく

身体は成人か、中年か、老体にはなっていても、ただ独りでおるだけでも孤独など感じず
辺り一帯の空間がまるで両親のごとく自分を抱くように感じれて、帰郷すべく心境へと
ようやく「還って来れた」と、知ることになるもので、それを知覚するに至れば

晴れて「覚者」と成る。その状態は、無限に湧く智慧の源泉が開いており、その言葉は
人々の閉ざされた心を刺激でき、帰り道へと誘導することも出来る、精神の「先達」ぢゃ

その途中経過を書くとなれば、話しは長くなるし、個々人の経験も十人十色であり
決して十把一絡げに一緒くたにできるものではないので、己の記憶を辿ればよかろう
まさにそれが「道のり」であって、最終的には「初めから道など無かった」と知れる