その観念=自分と言う思い込みを尽すのが悟後の修行でよ。
だから無心を得る、見性とか悟りとか言っているものがどうしても必要になるってこと。
なぜなら、無心を知らん人等は観念の入れ替えしかできないからさ。
古い観念を捨てて、またぞろ新しい観念に縛られて苦しみあぐねなければならなくなってしまう。
この観念=自縄自縛している縄をほどく、ほどき終われば元ほとけ。