桐山さんも護符のランの字がバンの字になっていたので、火が出なかった、水に祈って火が出るはずがない
なんて不思議話をしています。
こうなってくるとチャクラだのクンダリニーだのサマーナ気だのと 念力の護摩と 関係ないという気がしてきます。
火が出ることと 強烈な念力による願望達成力ってのは違う話ではないかと思います。
つまり単に念力で火が出た、出たように見せる手品 に懲りすぎると 、念力の意義そのものがおかしなものになってしまう。
人生における 念力の意義 、それが単に手品的な 場面だけの 成功不成功の話になります。
もっとシンプルにしなければなりません 。
護符でなく護摩木じゃなく 目の前の便箋からでも火が出るぐらいのシンプルさがないと
こんな作法に何の意味があるのということにもなってきます。