私が和田さんに念押し確認をしておきたいのはたった一つのことだけです。
念力の護摩と称する 護摩を焚くのならば 四の五の言わず 発火道具を使わない念力だけで護摩を焚いたかに見えるようなパフォーマンスをしろということです。
なるほど1970年1月3日は桐山開祖が初めて念力の護摩なるものを焚いた日であり、その記念すべき日に、記念すべき京都の旧道場で 念力の護摩の次第作法に従って護摩を焚く
というのだが、結局 ろうそくで火をつけたならばそれは どっちらけというよりも 開祖のどろまみれの顔にさらに泥を塗ったことになります。
念力で火が出ないのならば 作法だの次第だの初伝だの中伝だの一切言い訳にも何にもならない。
念力で火を出せないならばそんなイベントは最初からやらなければいいのです。
そもそも桐山さんは モンゴルの奇蹟のような話こそが神通力であり、それに比べて念力の護摩などを通力に過ぎないと言って、
その価値を低めて自ら焚かなくてもいいようにした。弟子も公開の場で焚かなくてもいいようにした。
にも関わらず和田さんがこれを蒸し返すと言うのならば、それを和田さんこの責任なんだから、開祖を辱めないように、
あんたがちゃんと火を出さねばならな
い。そういう手品をしなければならない 。
そういう覚悟 と度胸を決めなければならないということです 。
まあ開祖だって 公開あるいは一部職員に公開の場で 必ず最低でも煙は出るというパフォーマンスをやっているのだから、
和田さんにだってできないことはない。
私ももう何年も前の昔だが東急ハンズに行って手品の用具を買ってきた。
タバコを指で持ち、 薬液に先端を ポンと浸して、吸ってるふりをしているうちにそのうち煙が出てきて火が付いているという手品です。
これにフラッシュペーパーを添えれば良い。しゅうっと勢いよく火が燃えて引火に役立ちます。
とにかく念力で火が出たように見えるようにパフォーマンスをしなければ意味がない。
それができなきゃ、なんだ結局伝説の法であって誰にもそんなことはできない 、そんな法に何の価値がある?
初伝だの中伝だのどうでもいい話だ。 念力で火が出なければ 開祖を辱めることになるのだから。
和田さんが導師となって念力の護摩を焚くということは何を必要とされているか分かっているのだろうな?
と 、もちろん分かっていると思うから、私の念押しというのは 今更の話ではありますが。
逃げないで下さいね。