【不安障害治癒】「無我」の教え Part.2 【仏教、悟り】
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仏教、 無我の教え、悟り、森田療法により神経症(不安障害)は治せる
という話をしている無我さんのスレです。 >>496 そのとおり。それ簡単に言うと 共感。
量子論では、日本のA電子の観測が確定すると瞬時に、ブラジルのB電子の状態が確定する。
それを同じだとは言わないが、少なくとも、人類が社会を形成した一因に、共感 がある。
反感では、社会は形成できない。
つまり話は簡単に考えるという黄金律に従って考えれば、
苦しみとは反感という妄想が原因。
幸せとは共感という想像(妄想)が原因。
ならば、釈迦の言う苦からの解脱は、
反感という妄想(偽善、独善)をしないことだ。
共感という想像(妄想)のほうがマシということ。
そしてなぜか言葉も文化も違えど、共感という脳力を人類は共通に持っている。
信心とは、その心を信じること。迷ったら自分の良心に聞け。
※しかし俗世間で成功している奴は大概その信心を騙して金を儲けるという俗世的現実が信心の邪魔をする。
君は、信心する 覚悟 はできているか??金儲けしたいか??(笑)
それでも
全ては自己投影。
これだけは真理だ。
心理学 投影 で検索 地上に住む者を苦しませるのが神様だ
神様は地上に痛みと苦しみと絶望を創造した
だけど、自ら死ぬことが出来ればこれには強制力はない
我々はこの支配から自分の意思で抜け出すことが出来る 宇宙はアルゴリズムを持ってる
生命が機械的なら宇宙にあるものはすべて機械だ ただし、残念な事に、
・反抗朝鮮性障害(発達障害・二次障害)
には、心理学 投影 を受け入れることが非常に難しい。
反抗朝鮮性障害の原因は、発達障害二次障害の毒親からの虐待だから。
なので、反抗挑戦性障害者には、まず毒親対峙が必要。
対峙した後に、心理学投影を受け入れるケースが散見される。
反抗朝鮮性障害 毒親 虐待 で検索 だけど、神は全善全愛の存在なんかじゃない
それは人が知ることはできないが 祈りは奇跡をも起こせる
だけど、奇跡は自分自身の念が起こしているわけじゃない
見えない何かが起こしてる 神が全善全愛の存在なら
この世界に不幸な人は存在しないじゃないか
神は全善全愛の存在じゃない。人間に見えないからといっていないというのも違う
いるのだ。全知全能の創造主は >>505
素晴らしい。
慧眼だな。
こういうのがいないとこの板はカオスだよ。 祈りは見えない世界の何者かと繋がろうとする
最初の1歩 残念だが、
共感している集団と共感している集団の対立が
抗争であり、
国家間の戦争であるから、
全世界共感と行きたいが、
実際は不可能事だ。 >>506-507 では君の言う神はどこに存在する??
答えは君の脳内だ。まずその当たり前の 気づき が必要だ。オカルトはその後で楽しめば良い。
人間は脳に伝わる電気信号というかたちでしか、世の中を認識できない。
電気信号こそが人間の世界を認識する実存の全てであり、仏教の空思想も、最新科学の仮想現実論も
同じことを言ってるのである。
つまりすべては自己投影である。
>だけど、自ら死ぬことが出来ればこれには強制力はない
我々はこの支配から自分の意思で抜け出すことが出来る
→身体の死でなく、自己投影の死、妄想の死、我執からの死 をすれば良いだけだ。
ただ、それにはそれ相応の 覚悟 が必要。ゆえに達成されない場合が非常に多い、だけ。
不安障害の原因は、自己中心。自己投影。妄想。我執。なのだから。
心理学 投影 で検索 >>509-510
神 = 自己投影。人類共通の心の中の良心、仏心、神 = 自己投影
祈り = 人類共通の心の中の良心、仏心、神、を信じ祈る行為 = 自己投影
>我々は神によって創造された だから神に祈るんだよ
→我々は自己投影によって創造されている だから自己投影に祈るのだ
>だけど、神は全善全愛の存在なんかじゃない それは人が知ることはできないが
→だけど、自己投影(自分)は全善全愛の存在なんかじゃない←自己投影
それは、自己投影(自分)が知ることはできないが←自己投影
全ては自己投影 という言動や、現実認識が、不安障害根治の唯一の心理療法
しかしそれを一番邪魔しているのも、自己投影、自己中心、自分、独善、偽善。甘え。
心理学 投影 で検索 >>514
>祈りは見えない世界の何者かと繋がろうとする 最初の1歩
→自己投影は、見えない世界の何物かと繋がろうとする 最初の1歩
見えなくしているのは自分。その気づきが、第一歩
それではここで、問題をひとつ。パスを何回していますか??
https://www.youtube.com/watch?v=_47wBGqYnqI
心理学 投影 で検索 >>515
安堂さん、そのとおりです。
人間は権力を持つと暴走する。
人生は戦いなのです。
否定的自己投影・自己中心・妄想 との。
心理学 投影 で検索 記憶や感覚は人間の脳が創り出したものだから
この世界は仮想現実のようなものだけど
意識は物理的次元には存在しない 意識も記憶も感覚も肉体の支配に縛られているから
生きてる間にそこに気づいて解脱することは難しい
小指を針で刺して痛みを意識しないでいることが難しいのと同じ 仮想現実といっても映画のように空虚な世界ではない
抜け出したければ自殺しろ 肉体的自殺をする必要はない。
自己中心的な自己投影、つまり 妄想 を自ら殺せば良いだけ。
ただし精神病や発達障害にはそれが困難。
心理学 投影 で検索 無我です
皆さん、まだ自意識の中で溺れているみたいですね
とりあえず座禅して下さい
座禅の仕方は、曹洞宗の寺で教わって下さい ……。
確かに逝きたきゃ勝手に逝けばいい
ただ、俺は信じていないだけなのではないか…
恐れている。痛みを苦しみを不快になるこの感情…拭いされないから
信じきれてないだけでは? 信じる力が足りないだけ
恐怖心は必要ない
祈りだけが精霊との結び付きをより強固なものにする 死ぬ必要はない。ただ精神的に一度死なないと悟りは開けない。
精神的死とは、妄想を妄想で無くすこと。つまり妄想を妄想と気づくこと。
世界と他者と過去は変えられないが、自分の妄想だけは変えられる。
莫妄想。
すべては自己投影。
悟りとは、すべては自己投影 という気づき。
そして人間は、自己投影 しかできないという事実。
なので、悟りなど、誰にでも備わってる脳力。
しかし自我の芽生えとともに忘れてしまう。
だから、思い出せば良い。
心理学 投影 で検索
2020年、誰でも無料で悟れる時代へ。
みんなの幸せが自分の幸せ。
世界が今よりももっと平和になりますように。
虐待で苦しむ子供が居なくなりますように。
よろしければコピペ拡散お願いします。 そう、精神的に
悟るとか無我とかそういうメンタリティではまずムリ
人間は死なないと 自分の痛みと引き換えに他人救えますかって言われたらおれにはムリだったりするが
神の御加護があれば苦しみを超えられる
それが死であり悟りだぁなぁ 何も身体的に死ななくても、
精神的に死ななくても、
否定的妄想だけ、殺せば良い
って話な。いい加減に生きろよって話。
心理学 投影 で検索
5分でわかる心理学投影 https://www.youtube.com/watch?v=f5ATnmbWeiw
君も必ず幸せになれる、というかそういうふうに出来ている。それに気づくだけ。幸あれ。 その昔、インドのある国に暴虐な王がいた
その王は悟り、無我の境地について知りたいとおもい位の高い僧を呼び寄せ、その教えを請うた
しかしその僧は王に会うなり、暴虐さを非難し、執着を捨てるよう長々と説教をしだした
怒りを覚えた王は家来に命じ、その僧の腕を切り落とせと命じた
「さあ、もがけ、命乞いをしろ!」
しかし僧は抵抗する素振りもなく、腕は実際切り落とされた
「もがけ、命乞いをしろ」
僧は何事もないように、痛みも感じていない様子だったが、血はどんどん流れ出てくる
片腕で止血しようとしたが血はとまらない
観念して僧は王に命乞いをした
「どうかこの血を止めてほしい」
と地に頭を額づいた
とうとう王はそれを笑い者にし、手当をするよう命じ、命は助けた
王は喜びのままにその僧を追い出した
数年の後、その僧の教団から使いが訪れた時、王はかの僧がどうなったかをその使いに訪ねた
「彼はついに悟りに至りました、王に感謝するとおっしゃっていました」
王は合点がいかない。自分が腕を切り落としてやった僧が自分に感謝していると?
使いは説明をはじめた
「彼はすでにあらゆる苦行を克服し、あらゆる煩悩から離れていました。もとより痛みなどに覚えるような人間ではありません
しかし、あと一歩のところでそれを妨げていた執着がありました。それを理解させてくれたのが王だとおっしゃっていました
彼は腕を切り落とされた時、----繰り返しますが、もとより彼は痛みを覚えていませんでした-----
少しのいやしい感情を覚え、王に自らの死に様を見せつけようとすら考えたのだといいます
しかし道半ばで死ぬことはおろかであると感じ、王に額づいて命乞いをした、それが悟りへと至らせたのだとおっしゃっていました
それを気づかせてくれたのはあなたであると、そしてそれに感謝すると、彼は生前語っておりました」
王は震え、あの時の状況、にらみつけた彼の目を思い出し、恐怖し、わなないた
そして悟りを理解し、執着を離れることを求め、暴虐をやめた 言葉であれやこれやと捉えてるうちは無我ではない
無我とはそれは「宗教体験」を通してわかることである
わかると神経症は「消える」
その方法は、
意味がわからなくても
「本物の」宗教書の言葉をシャワーのように浴び続ける
あとは「本物の」僧侶の元について学ぶ
「本物」とは宗教体験がある者(が書いた文章)ということである。
by 無我さん(←おーい!生きてますかー!) 主体性の喪失によって苦しみは無くなるが
生きる能力も消失しちゃうから意味ないよね(´・ω・`) 無我くんの場合は、悟りによる入滅ではなくて、現世に未練たらたらで野垂れ死んだだけだけどね>>132>>55 心身(身体、性格、人格など)ー意識ー本体(宇宙大の無意識)
悟り、宗教体験がなくても
健康な人は意識が心身とついたり離れたりしてる
神経症の人はべったりくっついてる
by無我さん(←おーい生きてますかー) E夫妻は、子供の病気等の悩みを解決するためこの教団で運勢を見てもらった。スタッフから除霊をしないといけないと言われて、
教祖や教団内の資格を持った幹部の儀式、鑑定などを度々受 け、各種イベントにも参加したため、5000万円余を支払う結果になった。 悟り方による人間性のあり方、
もっと言えば、悟ることで普通の人間性を喪失してくように見えるんだが、気のせいなんだろうか?
今は無き無我さんにそれを強く感じた。 無我さん、実は悟ってなかったってことだよね?
まあ、なんか書き込みから、分かる気がしたけど。 無我さんは、本物の仏教書を読み続けたり本物の僧侶の元で学んだりして宗教体験を経験し
悟りや無我のフォーマットがわかる(無我さんでも悟りの入り口)ことによって
神経症や人生の悩みが消える、解消すると言っていた。
既存のフォーマット内で、無我とはこうこうこうでと理解してもそれは違うと。
自分は仏教書を読むのも瞑想もゼロだし宗教体験など起こらない。
しかし、ふとこれは近いものがあるのではないかと感じる時がある。
それは睡眠で夢を見ててパッと起きた時。その瞬間は意識がふわっとしてて半分夢の中の自分が残っているような状況だが、すぐに自分が何者なのか、
年齢はいくつでどんな経験をしてきて、今の生活環境や状況、人間関係はどうで、悩みや問題は何でというようなことがはっきりわかる。
ああこれが現実だと。
そして起きている間は、その現実での「自分」というものが強力に維持される。
寝て意識自体が飛んでる時もそうだが、夢を見てる時は、意識と人格というのが離れている。
年齢も住んでる場所も人付き合いの形も違う自分になってる。ふわふわとして人格やそして年齢など物質的な制限や悩みなどが融解してる。
ある時は子供の時に戻ってたり、ある時は別人になってたり。
そして気付くのは、起きてる時のこの現実での人格や自我、固着的な悩みというものこそ
(自分の脳が作ってる)幻想の部分があるのではないかと。 0586 無我 ◆Esd1WVXfgw 2018/06/05 06:44:05
http://rinnou.net/cont_04/zengo/130201.html
赤肉団上に一無位の真人あり、常に汝ら諸人の面門より出入す(『臨済録』から)
(しゃくにくだんじょうにいちむいのしんにんあり、
つねになんじらしょにんのめんもんよりしゅつにゅうす)
このサイトの短い文章は良い文章だと思います。
何度も読んで味わってみましょう。
私がいつも書いている「身心とは別の(個人性のない)意識」というのは、
この「無位の真人」のことです。「赤肉団」が身心のことです。
禅宗では、この「無位の真人」を実体として見ない傾向がありますが、
私の師匠だった大森曹玄老師は、実体のあるものとして見る立場を
取られていました。これは「悟り」に実体があると言うのと同じで、
「すべてのものに実体はない」という通常の仏教の教えとは異なる
ものですが、実際には「悟り」に実体があるという立場を取った仏教の
高僧は仏教史上にたくさんおられます。
「神経症と仏教」という観点から見た場合、「悟りに実体はない」と
いう立場の教えよりも、「悟りに実体はある」という立場の教えの方が、
神経症が治りやすい傾向があります。 http://rinnou.net/cont_04/zengo/130201.html
>西田幾多郎という哲学者の代表的論著『善の研究』の序文に、「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである」という難しい一文が見える。われわれは誰でも、「自分」が花を見たり、月を眺めたり、鳥の声を聞いたり、あるいは雪を冷たいと感じたりしていると思っている。しかし西田はそうではない、と言うのである。
西田に言わせれば、「個人」が花を見たり月を眺めたりするのではない。むしろ逆で、花や月を見て美しいなあと経験することによって自己が形成されるのだと言う。今朝は寒くて外へ出るのは嫌だなあと思ったとき、寒いと感じる個人(自分)ができ上がる。そのように、自分という個人は、一瞬、一瞬、違った内容の個人として生き続けている。決して個人というような確固不動な実体はない。個人は「存在」ではなくて「生成」、つまりいつも進行形なのである。
頬を抓ってみると、確かに他人ではない個体としての「自分」がある。しかしこれはもともと母の胎内から生まれ出たもので、やがて死ぬと棺桶に入れられる「肉の固まり」に過ぎない。しかし「私は」という自我意識が、その事実を見失わせる。
木や石と違って人間には「意識」があり、その意識が他人ではない「自分」を自覚させている。こうしてわれわれは自我意識を「自分」だと勘違いしている。
意識は鳥の声とか、花の色というような外界のものが、感覚器官に入ってくる瞬間に起こるものであるから、もし何にも入ってこなかったら自我の自覚もないであろう。こうして「自己」というものの内容は、肉の固まりと感覚器官を通して入ってくる経験によって成り立っているのである。
道元禅師はこのことを「本来の面目」(真実の自己)と題した歌で、「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて冷しかりけり」と歌っているのである。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています