仏教の教えや輪廻転生に詳しいやつ教えてくれ
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現世が前世の業を消化して人間の苦しみを耐えて生きなければならないって所は納得できる。
けど、普通に生きてていきなり一生分のこの世の苦しみや恐怖を与えられて殺されて行く人間はどうやっても納得がいかない。
仏の教えではこう言う人にはなんて納得させるのさ? 日蓮大聖人は仰せだ。
正しき仏法を学び実践すれば次のような臨終を迎えることが出来ると。
「滞りなく上上品の寂光世界へ往生を遂げ、たちまちの間に九界生死の夢のなかに帰ってきて、
身を十方法界の国土にいきわたらせ、心を一切有情の身中に入れて、内からは勧発し、外からは引導して、
内外相応じ、因縁和合して自在神通の慈悲の力を施して、広く衆生を利益すること滞りがないであろう。」
と。 硫黄島の戦いから74年 国民は、死でもって日本を守った英雄を忘れてしまったのか
《本記事のポイント》
2万人余の日本兵が命を賭して戦った「硫黄島の戦い」から74年
日本人が、日本を守ってくれた先人の存在を忘れてしまっている
健全な愛国心に目覚め、世界の平和に責任を持つ誇り高き日本人となるべき
硫黄島(いおうとう)の戦いから、26日で74年が経ちます。
1945年の2月19日から3月26日に至るまで、1カ月以上にわたって続き、日米双方で約2万9千人の死者が出たとされる激戦です。
今月23日には、20回目となる日米合同の戦没者慰霊追悼顕彰式が行われ、遺族や日本政府関係者、米海兵隊のロバート・ネラー総司令官、米国退役軍人らが出席しました。
硫黄島の戦いと言えば、クリント・イーストウッド監督の映画「硫黄島からの手紙」を思い出す方もおられるでしょう。アメリカ側の視点を描いた「父親たちの星条旗」と対をなす形で、2006年に公開された映画です。
「父親たちの星条旗」のメガホンをとったイーストウッド監督が、資料を調べる中で、どうしても日本側の視点で映画をつくりたくなったといいます。
硫黄島の戦いは、アメリカにとって「栄光」の象徴です。
アメリカの栄光を示すためなら、アメリカ側から見た映画だけでよかったはず。しかし、日本の陸海軍の将兵もまた「英雄」であることに気がついたイーストウッド監督により、「硫黄島からの手紙」が誕生したのです。
硫黄島で戦った米兵は「英雄」として扱われ、退役した海兵隊員同士の会話で「イオージマに行った」と答えると、その場の海兵隊員は飛び上がるように起立し、最敬礼するほどだと聞きます。
日本人が忘れてしまった英霊
イーストウッド監督の「公平さ」には敬意の念を抱きます。ただ、本来であれば、日本人がすでに撮っておくべき作品だったはずです。
「硫黄島からの手紙」がなければ、総指揮官を務めた栗林忠道(くりばやし・ただみち)中将や共に戦った将兵の存在は、多くの日本人から忘れられたままだったかもしれません。
硫黄島は、日米両軍にとって「要の島」でした。 当時、米軍は日本本土への空襲や上陸決戦を想定していました。硫黄島は、米軍の長距離爆撃機B29の基地があるマリアナ諸島と、日本本土のほぼ中間に位置し、長い滑走路を持つ飛行場が3つありました。
アメリカ側としては、硫黄島を占領できれば、戦闘機の燃料補給や出撃のための重要な基地となります。
逆に硫黄島を奪われれば、日本の本土防衛は絶望的になりました。だからこそ、2万人余の日本兵が孤立無援でも、最後まで戦い抜いたのです。
戦略的に重要な島であるにもかかわらず、硫黄島は攻めやすく守りにくい地形でした。米軍は、圧倒的な戦力差もあり、「上陸作戦は5日で終わる」と高をくくっていました。ところが、日本軍は坑道を地下に張り巡らせ、36日間にわたって持久戦を繰り広げたのです。
日本軍の徹底抗戦ぶりは、作戦開始から3日目にして、米軍側に「史上最大の作戦」と呼ばれるノルマンディー作戦の死傷者を超える被害を出させるほどでした。
そして、3月26日の未明、栗林中将は生き残った将兵約300人の先頭に立って最後の総攻撃を仕掛け、戦死を遂げました。
散っていった「無名の英雄」たち
先人が命を賭して戦ったのは、硫黄島だけではありません。
ビルマでの勇戦敢闘、神風特攻隊の雄雄しい戦いぶり、米軍に大きなダメージを与えて散華した義烈空挺隊(ぎれつくうていたい)。サイパン、フィリピン、沖縄などでも、陸海軍の将兵は激戦に身を捧げました。
どのように戦い、全滅したか記録もない部隊が多く、私たちはそうした「無名の英雄たち」の犠牲の上に、今を生きているのです。
日本人が、日本を守ってくれた先人の存在を忘れ、むしろ外国人がその英雄ぶりを評価する現状を、悲しく思います。
戦場で命を散らした将兵を「犬死にだ」と評する人もいます。無駄な抵抗などせず、手を挙げて降伏すればよかったという理屈です。
しかし、激戦の果てに降伏しても、「捕虜を取らない」という理由により、皆殺しにされる例などいくらでもありました。生き残った日本兵が少ないのは、そうした理由もあります。 健全な愛国心に目覚める
「民主主義的で自由なアメリカ軍と、ナチスと同類の残虐な日本軍」というイメージは、戦後につくられ、事実ではありません。
私たち日本人は、健全な愛国心に目覚めるべきでしょう。それは、他国を排撃して満足するような狭量な愛国主義ではありません。
冷静に過去の事実に向き合い、連合軍の占領下で押し付けられた「洗脳」を解き、真実を知ることが必要です。そうしてこそ、自国だけでなく、世界の平和にも責任を持つ、誇り高き日本人になれるはずです。
筆者プロフィール
飯田たけし
1959年、東京都品川区生まれ。東京都立大学経済学部卒。有限会社飯田商会・代表取締役。沖縄浦添市fm21「へんまもレイディオ」、ネット番組「名もなきサムライたち」などのコメンテーターとして出演。著作に『海軍特別救助隊』(元就出版社)など。 ボットはいくらでもコピペできる
ドラゴンボールみたいにさぁ! ブッダン・サラナン・ガッチャーミー
タニケイノ・ギャグヨ・ガッチョーン
ドクタァスランプノー・テンシ・ガッチャーンヨー
こういう歌みたいな
お経の集会に無理やり連れていかれましたが、これはなんの集会ですか?詳しい人教えてください。 積極的に造悪して喜ぶような輩は自ら進んで地獄へ突き進む
んだから誰かが何かをする必要はないよ 仏教の輪廻は不幸にして早死にする子供、虐待される子供、障害者など被差別境涯にある人々を「自業自得」って切り捨てるえげつなさが有るからなあ。それをたてにとって弱いもの苛めする宗教者多いし。 >>609
むしろそっから勧めて障害者などを(欲求にまかせて)攻撃する人は、障害者を生む、生まれ変わるとする人も多い まあそれらにやさしいのはキリスト教とかユダヤ教系だろう
今は「ゲイや先天性疾患は神が生み出したもの」になりつつある
鬱や精神疾患で苦しんでいても
「あなたのそれは神が生み出したものです」
と言われれば救われうる >>612 そう。それであれば神を憎むなり愛するなり踏ん切りがつけられる。が、仏教はどこまで行っても自己責任。持てるものが強く持たざるものはいつまでも弱いままに置かれる。 それがあるからアンベードカルなんかは輪廻完全否定なんだよな。それなら仏教よりも
イスラム教で社会改革やらなかったのは何でだろう? キリスト教はイギリス化を避けるため
選択しなかったのは分かるが。日本は比較的差別が少ない日蓮系でも弱者障害者切り捨て上等なんだから、イスラムの方がまだよかったと思うんだが。 >仏教の輪廻は不幸にして早死にする子供、虐待される子供、障害者など被差別境涯にある人々を「自業自得」って切り捨てるえげつなさが有るからなあ。
切り捨てるの小乗経の教えだよ。自身の解脱(自利)以外に関心はないからね。
大乗経は「同苦」といって同じ苦しみを分かち合うのが基本にあるから、そうはならない。
仏法は「因果応報」を説く。
因無くして果はない。科学と同じだよ。
そうでなければ、単に「運が悪かった、運が良かった」みたいな事になるだろうけれど、それでは不合理となる。
キリスト教のように神の意志に運命を左右されるのならば、自身の努力も空しく不幸になったとしても
神の思し召しで納得するしかないのだろうか?
仏法の因果応報を否定するならば、「早死にする子供、虐待される子供」をどう理由づけすれば納得がいくのだろうか?
きっと何も思い浮かばないと思う。ただ、人の理不尽な死を仏法の法理に事寄せ責任転嫁しているように思えてならない。
責任転嫁したところで何も変わらない。
仏法には「願兼於業」という教えもある。
必ずしも悪業によって、苦難に遭うとも言い切れない。
「願兼於業」とは
悪道・悪世に苦しむ人を救うため、自ら願って悪道・悪世に生まれてくること。
法師品には、菩薩がすでに積んだ仏道修行の功徳によって善処に生まれてくるところを、民衆救済のために願って悪世に生まれ、
苦悩する民衆の中で仏法を弘通することが説かれている。
別の角度から考えて、生命とは何も人間だけのものじゃない。
動物だって植物だって生命だよ。
一人の人間の理不尽な死は納得出来ないが、食用動物は毎日ベルトコンベアーで数万匹殺されていようと何も感じない。
テレビを見ながら「虐待死なんて許せないよなぁ〜」と言いながら平気で肉喰ってんだから。
昔は出家僧は肉食厳禁だったろうが、今では普通に坊主は肉喰ってるし。 まさに、動物から見れば、人間は悪魔だよね。
仏法はありのままの実相をありのままに捉えるという思考法をとっている。
そこには個人的な感情など入り込む余地はない。
そういう意味では極めて厳粛な法といえる。
そのうえで、法華経は正しい人生の道筋を一切衆生に説き示した法門といえる。
簡単に、それが何か、どうかと言う事はできないが、はっきりしている事はいかなる生命であろうと
この世に生を受けた以上必ず生命の存在意義というか生まれてきた使命があると言う事だ。
それは仏法で説く「縁起」を理解すればわかる。
「全ての現象は、原因や条件が相互に関係しあって成立しているものであって独立自存のものではない」
(ウィキペディア)
彼らの死は、生きている私たちに何を与え、何を示唆しているのか思索してみる事も重要ではなかろうか。 輪廻転生は聖人が真理を説くにあたって行き着いた新しい概念であり、仮説であると思う。物語と言った方が良いのかもしれない。
そもそも神や宗教といったものの根元は人間の背徳心から来てるのだろうと思う。つまり本能が自らが生存する上で指令するのだろう。(続く) 例えば人のものを盗むときドキドキしたり、ビクビクしたりするのは「注意しろ!」と信号を出してるのだと思う。悪いことをしたという感情も相手の気持ちを推し量るというコミュニケーション能力ため生まれたものだと思う。何が言いたいかというと神様(神話のような)はいない。 >>618
そう。人間を離れて神様や仏様はいません。
>宗教といったものの根元は人間の背徳心から来てるのだろうと思う。
それもあるだろうけれど、原始宗教は自分の力ではどうにもならない事を
何かに縋って心の安寧を求める心から始まったのではなかろうか。
いわば、生命の飢餓状態からの当然の帰結として様々な宗教が生まれたものだと思う。
輪廻転生は現実に証明出来ない以上「信」の問題になる。
三世の生命観に立ち因果応報を説くことで、必然的に人間社会への倫理観を確立したと思う。
良い行いは来世の安穏善所が約束され、悪い行いは地獄に墜ちるという具合に
来世が証明出来なければ、来世が「ある」、「ない」どちらに賭けた方が得か
パスカルの賭には人々を納得させる仮説としては今でも有効に思える。
>>539 その屈服とやらをする時に経典は便所紙だと教えるのかい?
そんなの屈服どころかただの増上慢かエセ仏法者の真似事
もはや仏教を学ぶ菩提ですらないから仏法を正しく語る事は出来ない
ちなみに仏法では慈悲を受持し説法を用いて相手の教義や境地を広め高みに引導していく事を目的としているから屈服を用いる事自体間違いな 神は紙
しかし糞を拭く紙にもならず
何故なら紙は糞で出来ていた 糞を洗い流したい時に役に立つのは一体何なのかこれが分からない 尻服=>尻拭く の間違いでしょ。
尻服=>屈服と勘違いしている。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています