「私」とか 「私のもの」などといえるものはなく 、すべてのものは無常なのです 。
私たちは 、なぜ 「ニッバーナを得た」という言い方ができないのでしょうか ?
なぜなら 、ニッバーナを体験した人は 、もはや 「私」とか 「私のもの」という考えを持たないからです 。
もし 、そのような言い方をするのであれば 、その人はニッバーナを真に体験してはいないということです。
(アーチャン・チャー)

修行僧たちよ、そこで、わたしはみずからは生まれるものであるけれども、生まれるものに患いを知り、生まれることのない無上の安らぎであるニッバーナを求め、生まれることのない無上の安らぎであるニッバーナを得た。
みずからは老いるものであるけれども、老いるものに患いを知り、老いることのない無上の安らぎであるニッバーナを求め、老いることのない無上の安らぎであるニッバーナを得た。
みずからは病めるものであるけれども、病めるものに患いを知り、病めることのない無上の安らぎであるニッバーナを求め、病めることのない無上の安らぎであるニッバーナを得た。
みずからは死ぬものであるけれども、死ぬものに患いを知り、死ぬことのない無上の安らぎであるニッバーナを求め、死ぬことのない無上の安らぎであるニッバーナを得た。
みずからは憂えるものであるけれども、憂えるものに患いを知り、憂えることのない無上の安らぎであるニッバーナを求め、憂えることのない無上の安らぎであるニッバーナを得た。
みずからは汚れるものであるけれども、汚れることに患いを知り、汚れることのない無上の安らぎであるニッバーナを求め、汚れることのない無常の安らぎであるニッバーナを得たのである。
そしてまた、わたしに知見が生まれた。『わたしの解脱は不動である。これが最後の生まれである。もはや再生することはない』と。
(パーリ中部 聖求経)

アーチャン・チャーに言わせればブッダさんはニッバーナを真に体験してないらしいw