【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践14
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お釈迦さまの教えとサマタ・ヴィパッサナー冥想に関心のある人、実践している人、
体験や変化を 実際に経験している人、初心者、先達の方々、預流果の方々、
更なる成長を求めて語り合いましょう。
前スレ
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践13 [転載禁止]©2ch.net
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1521007589/l50
※ここはテーラワーダ仏教全般について語るスレであって、日本テーラワーダ仏教協会や
そこの所属比丘についてだらだら語る場ではありません。
日本には他にも上座部仏教修道会、日本上座部仏教協会、日本ヴィパッサナー協会など
多種多様な団体があります、
諸外国においてもタイ・ミャンマー・スリランカ・ラオス・カンボジアなど、国ごとの違い
もあります。
そこを踏まえてご参加ください。 >>645
最初は本からですね。
徐々に瞑想に力を入れていき、本は捨て、仕事も辞めてしばらく瞑想に専念し、
最後は普通に仕事もし、普通に瞑想し、全く普通の生活をしていたら預流果に悟りましたね。
天国も地獄も一通り経験して、当たり前になった時悟りました。
本はけっこう早い段階で捨てました。
瞑想は基本マハシ式ヴィパッサナーで、たまに呼吸瞑想、只管打坐の真似ごとをやってみたり。
最初は慈悲の瞑想をひたすらやり込みましたね。歩く瞑想もかなりやりました。
とにかく生活の全部を瞑想に費やしましたね。
最後は瞑想に対する気持ちも冷静になりましたけど。 >>646
おめでとうございます。
悟る瞬間はどんな経験をするのか教えていただきたいです。 結構苦労されたんですね。
これからの修行の展望はどうですか?
自分はなかなか欲界に対する未練を捨てきれません。
いいところまではきている感じなのですが、近いようで遠いような感じです。
まあ日々の修行が足らないですね。特に念と定の力が足りていないと感じています。 >>626
仏教のアビダンマでは 、まず心を「勝義諦の一つ 」と位置づけています 。
勝義諦とは 、「真実 、真にあるもの 」という意味の仏教用語です 。
仏教のアビダンマでは 、勝義諦 ・真実 ・真にあるものは 「心と心所と物質 (色 )と涅槃の四つだけ 」と説明しているのです 。
一般的な世界の立場からは 、「もっといろいろなものがあるじゃないか 」という反論が返ってくるかもしれませんが 、アビダンマ論では 、「この基本的な四つがあるだけ 」と見るのです 。
その基本的な真実 、 「本当にあるもの 」の一つが 、心 c i t t aなのです 。
(スマナサーラ著「ブッダの実践心理学2」)
ということで、テーラワーダは心と心所と色と涅槃の四つを真にあるものとして実体視します。
説一切有部だとそれに心不相応法が加わって法の五位です。
実体はありますが刹那生滅するから無常であるというのがテーラワーダや説一切有部の教説です。
我空法有はテーラワーダの教説です。疑うのなら「テーラワーダ 我空法有」で検索してみるといいです。
五蘊に実体はないとするのは大乗仏教の空の理論です。 >>647
けっこう普通に冷静ですよ。
あっ!!!とは思います。
見るもの聞くもの感じるもの、全部が止まらず動き続けている。
本当に今の一瞬しか無いんだと気づきます。
その後なぜか、強烈な喜びが湧き上がってきますが、しばらくすると落ち着きます。 >>649
スマナサーラ長老の「本当にある」というのは、実体、実在としてあるという意味では無いと思いますよ。
因縁により生滅しており、無我であり、空である「それ」としてあるのだと思います。
我空法有はパーリ語で何といいますか?検索しても出てきませんが。 ちなみに無我ということも、空ということも、無いという意味ではないですよ。
我が無い、固定していて実際の存在として捉えることの出来ない、認識としてだけ有り、実際は瞬間で生滅している無常の「それ」です。
あるがままのそれです。 >>651
テーラワーダでは法は「因縁により」生滅している
と誰か言ってる人がいるのですか?
>>652
我(アートマン)は生滅しません。
あなたがどう思おうともそれがアートマンの定義だからです。
生滅するものでしたらテーラワーダ(分別説部)含む部派仏教の中に我を加えている部派はあったのかもしれませんが事実として我を法に入れている部派はありません。 分別説部では、我々が経験する常識的な存在、個別の人や事物・事象は仮のものであって実在しない、
我いわゆる霊魂のような「不滅の私」・「永遠なる個我」(atta)なるものなども存在しない、故に「無我」(anatta)である、と無我を理解。
しかしながら、部派仏教といわれる諸部派がその他なんらかの実在を認めていたように、究極的には四つの範疇に分類されるモノが実在する、という見解を立て、そのような理解に従った教学を構築しています。
現在の分別説部では、そのような究極的実在を、パーリ語でparamattha[パラマッタ]と呼称します。
その意味は、parama(第一の・勝れた)+attha(本質)で、漢訳語ではこれを「第一義」あるいは「勝義」などと言います。
あるいは、それら究極的実在を、vatthudhamma[ヴァットゥダンマ]などとも呼称します。
これはvatthu(拠り所・基礎)+dhamma(存在)で、いわば存在の根拠、要するに実在するモノのことです。
さて、ではその四つとはなんであるか。これを簡潔に表にして示せば、以下のようなものです。
(paramatthaの法の区分表)
これら四つの範疇に属するいちいちの法はすべて真に実在するのであり、これ以外の実在を認めるのは誤りである、というのが分別説部における見解です。 >>654の続き
現在、俗世間では一部に、何を根拠にその様に言うのか知りませんが、「上座部は小乗ではない」・「小乗では無かった」などと主張する一類の人々があります。
しかし、上に見たように、個我は実在しないけれども、しかし何事か真に実在するものが有るという見解を建てている以上は、これを大乗では「人空法有[にんくう ほうう]」などと云うのですが、
まさしく大乗から小乗(Hīnayāna)すなわち「不完全な教え」・「劣った教え」と見なされ、称された教え以外の何物でもないことになるようです。
また、現存する諸部派の成立についての伝承や、それらに対する大乗の見解を記した典籍からしても、多く分裂してその見解の是非を競っていた諸部派は、大乗から小乗と呼称されたものです。
であるとしても、しかし、それら部派の教義・教学体系には見るべきもの、学ぶべき有益な事柄が多くあります。
実際、大乗の諸学派はそれら部派を小乗と呼びながらも、しかしそれら(特に説一切有部・経量部・大衆部・犢子部など)を学ぶことは必須のものでした。
実際、大乗であろうが小乗であろうが、いずれも仏陀釈尊という清泉より涌出し、連綿と流れ来たったものです。
そこから汲む水は、その広狭・浅深こそあれこれを散ずれば、等しく人を、世界を潤わせ涼やかにする有益なものに相違ありません。
http://www.horakuji.com/treasures/vibhajjavadin_cetasika.htm >>646
有難うございます
丁度仕事に就こうと思っていたので励みになります。
私も瞑想に費やして行ければ良いなと思います。
いかんせん意思が弱く徹底できていませんが・・・ https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1150937286
これを読むと、我空法有は大乗仏教が、小乗仏教(説一切有部)に対して付けたレッテルじゃないですかね?
大乗仏教の立場は一切皆空ですが、それはブッダの立場と一致するように思います。
法には二つ意味がありまして、真理という意味と存在という意味です。
存在としての法は、我々の意門の対象、概念としての法ですよね。それは当然、無常ですから生滅してますし、
生滅するものは全て因縁が絡んでいるはずです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95_(%E4%BB%8F%E6%95%99)
私の言う我はアートマンではないです。
固定していて、不変の、存在として捉えられる、実在、実体として捉えられるもの。という意味です。
自分の我は自我ですね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%88%91 説一切有部では、我々が経験する常識的な存在、個別の人や事物・事象は仮のものであって実在しない、
我いわゆる霊魂のような「不滅の私」・「永遠なる個我」(ātman)なるものなども存在しない、故に無我(anātman)である、と無我を理解。
しかしながら、部派仏教といわれる諸部派がその他なんらかの実在を認めていたように、大きくは二つ、あるいは五つの範疇に分類されるモノが真に実在する、という見解を立て、そのような理解に従った教学を構築しています。
巷間には開口一番「すべては虚妄である。所詮それは、名(ナーマ)と色(ルーパ)にすぎないのであるから」だとか「すべては無自性空である。あれも空だ、これも空だ」などと宣う愚か者があります。
が、説一切有部では、世間で認められる常識的な存在を無碍に否定などしておらず、これを世俗諦(世間的レベルでの真実)とし、対して究極的に認められる存在を勝義諦[しょうぎたい](真に存在するモノ)としています。
吾人の知覚し、経験する諸々の事象を、端から否定するような態度は取らないのです。
真実(諦/satya)について、その見方によって二つの階層を設定し、そのそれぞれの価値を認めているのです。
そして、そのような真実についての理解の仕方は、その内容とするものこそ相違があるものの、大乗にも引き継がれています。
個我は実在しない。けれども、生命・事物など仮の現象を構成する、真に実在するモノがあるという見解を、大乗では「人空法有[にんくうほうう]」などと云います。
そして、そのような見解自体、またそのような見解を至高として奉持する人々は、同じ仏教であっても、大乗の立場から小乗(Hīnayāna)すなわち「不完全な教え」・「劣った教え」と見なされてきました。
特に説一切有部は、インドで最大勢力を誇る部派の一つであったこともあり、その見解・学説は、大乗の主要な批判対象となっています。
http://www.horakuji.com/treasures/sarvasthivadin_cetasika.htm >>657
我空法有は大乗仏教側の用語であるというのはその通りです。
法の生滅はその法の自性であるというのが部派仏教の理論だったと思います。
我の定義は仏教で我と言ったら何のことを指すのかほの定義をはっきりとわきまえていないと対話していて混乱しますね。 私もまだ正直、自性という言葉の意味がよく分かりませんし、実在という言葉もちょっと曖昧ですよね。
もう少し勉強したいと思います。 法の刹那滅(刹那生滅)は法の自性かどうか、ですが。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/37/2/37_2_922/_pdf
上記論文をさらっと読んだところでは部派によって見解が違う、と。
説一切有部は実体として存在する五位七十五法の心不相応行法に生住異滅の四相がありそれによって刹那滅していくのですから、刹那滅は四相が因になると言えるかもしれませんが、
四相自体も実有なので結局的には生にしても生を生起させる随相の生があればあとは因なしで生が生起することがこの論文には書いてありました(って書いてても自分でややこしいと思いますが詳しくは論文を…
経量部は四相は認めていませんが生が生起するのには本はなしとしているとあり、これが因なしで刹那滅の生が起こることを意味しているのかは分かりませんでした。
滅について因が必要かどうかは経量部では不要、
正量部では心法や心所法では無因でよいが色法は刹那滅ではなく一定期間相続するから滅には原因が必要とされていたようです。
また経量部は説一切有部の随想の生はそれを生起させる随相の生が必要になり随相の生を生起させる随相の生にもそれを生起させる随相の生が…
という具合に無窮の過に陥るのではないかと突っ込みを入れましたが、説一切有部からの反論があったり、
また中観派からの突っ込みもあったりして、刹那滅というのも随分と論争のネタにされてたんだなというのが垣間見えました笑
釈迦ならこの辺りのことは悟りには関係ないとして、もし訊ねられても無記としたのではないかと思われます。 涅槃でいる間は識別作用がないとよく言うけど、それじゃその間、失神や熟睡してしまったのではないとどうして言えるの?
瞑想して入るからそれが涅槃だと言えるのかもしれないけど、状態として失神や熟睡との違いは何かあるのでしょうか?
具体的にどのような違いがあるのでしょうか? >>638
ん〜、やっぱりオカシイな。
気づきを保つこと(正念を保つこと)を、八正道(の概念)に対する執着とは言わないでしょう。 あれこれ思考を巡らせていたら、それは妄想に流されているのであって
正念は保てていないわけですからね。 預流果って、パーリ三蔵の文脈で説明される道果ですよね。
その預流果が、臨済を持ち出して、パーリ三蔵の土台である三宝を否定するかな。
他人が彼岸にわたる乗り物を壊す、少なくとも水を差す行為でしょう。
預流果の人がそんなことをするとういのが、想像できない。 テーラワーダの聖者と言われている人で、ブッダも虚妄なんていう比丘がいましたかね。
三蔵経典の中にも、現代の比丘のなかにも、一人でもいましたっけか。 大乗仏教の文脈から、パーリ三蔵仏教は劣った不完全な教えだと
言うのであれば、どうぞ人よりも優れた仏教、人よりも上位の仏教、
人よりも優位な仏教である大乗仏教をやっていて下さい、と思って
しまいますね。 >>663
気づきと智慧があるかないか。
>>668
こう考えてみて下さい。
阿羅漢は仏教徒だろうか。聖者だろうか。八正道を行じているだろうか。
ブッダに帰依しているだろうか。経典を大事に抱え込んでいるだろうか。
解脱するとはどういうことだろうか。一切の執着を断つとはどういうことだろうか。
筏のたとえもありますね。
一休禅師は筏を捨てるだけでなく、筏をぶち壊して小便ひっかけて笑いながら逃げたようなものですよ。
「釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよはすかな」 一休
ブッダは嘘つきだという意味ではもちろん無いです。仏教の勉強をしたがゆえに、かえって頭が悪くなる場合が多い。
もしくは、阿羅漢にとってはブッダであっても迷いの原因だという意味でしょう。 >>670
涅槃の間は気づきも智慧もないですよね
涅槃の後に気づきや智慧が生じたとしても涅槃自体に失神や熟睡との具体的な違いが体験内容としてはないってことですよね
ざっくり言うと失神や熟睡で気づきや智慧が生じた人と区別がつかないってことですよね
言いたいことは体験の内容として涅槃と失神や熟に違いがあるかどうかということなんです >>671
いや、どうも気づきはあるみたいなんですよ。
マハーシ長老の本でも、「対象と気づきが断ち切れた」みたいな表現してましたし。
気づきはどうも不思議なもので、いったい何なのかはあまり語られてないみたいです。
あまり気にしなくていいという事でしょうけど。 >>672
へえ、識別作用はなくても気づきはあるんですか
それだと失神や熟睡とは全く違いますね
ありがとうございました >>673
いや、あるというのもおかしいですが、対象と気づきが切れて機能しなくなるとか、
止まった気づきがあるというか。
いずれにせよ言葉では表現できないみたいですね。 涅槃は心・五蘊ではなく純粋観照者たる真我で知覚する
真我のことをインドではプルシャという
ヨーガとは心の働きを止滅することである。
心のはたらきが止滅された時には、’’純粋観照者’’ たるプルシャは自己本来の態にとどまることになる。ヨーガとは心の働きを止滅することである。
(ヨガスートラ) >>676
気絶とか以外でそれができるとしたら、それは貴方が完璧なサマタ瞑想を行ずることができるからだろうね
心の中には一刹那の間にも無数の想念が湧いてくるのだという、ヴィパッサナーを極めるとそれら無数の想念を完全に観察することができるという いいたとえを思いついた。
寝ている時は、無明の闇によって対象が観えない。涅槃の時は、智慧の光が眩しくて対象が観えない。
寝ている時は、気づきが無いから対象が観えない。涅槃の時は、気づきが速すぎて対象が追いつかないから観えない。 スマナサーラは90年ごろの土曜の教育テレビでよくみかけた
こころの時代って番組だった。昼の1時から1時間番組。 靴箱、こんなとこにいたんだな。相変わら頭のイカれたスマナサーラ信者なんだな。 むしろ頭がイカれてるのは自分の方だと気付く
その攻撃心に気付く 221、 怒りを捨てよ。慢心を除き去れ。いかなる束縛をも超越せよ。名称と形態とにこだわらず、無一物となった者は、苦悩に追われることがない。
226、 ひとがつねに目ざめていて、昼も夜もつとめ学び、ニルヴァーナを得ようとめざしているならば、もろもろの汚れは消え失せる。
276 、汝らは(みずから)つとめよ。もろもろの如来(修行を完成した人)は(ただ)教えを説くだけである。心をおさめて、この道を歩む者どもは、悪魔の束縛から脱れるであろう。
323 、何となれば、これらの乗物によっては未到の地(ニルヴァーナ)に行くことはできない。そこへは、慎しみある人が、おのれ自らをよくととのえておもむく。
348 、前を捨てよ。後を捨てよ。中間を棄てよ。生存の彼岸に達した人は、あらゆることがらについて心が解脱していて、もはや生れと老いとを受けることが無いであろう。 >>683
コピペもいいけどさ 自分のコメントもつけろって このスレたまに白熱することがあって、平常は書き込みがないよね
みんな自分のこと頑張ってるんだろうか 毎度「群盲象を評す」状態に陥り、事態収束のために経典が引用され、
けっきょく最後は自分の心を整えるしかないよね、って結論でおわる。
毎回この繰り返しな気がす。 仏教が沢山枝分かれしたのもこのスレを見ていると納得する もし経典の結集がなされていなかったら、仏法は跡形もなく
雲散霧消していたのではなかろうか。 色蘊は無我。
肉体は地水火風の集まりであって、その地水火風は米、味噌、野菜などから取っている。
地球にある地水火風を借りて肉体が出来ている訳だが、
この肉体を自分であるとか、自分の物だと勘違いするのは盗み、嘘じゃないか。
図書館で借りてきた本を、自分の本だと言い張るようなもので、馬鹿らしい間違いだ。
いずれ死んだら灰になったりして、地球に返さなきゃいけないのに。
肉体を維持するために一生苦労するのも馬鹿らしい。
最後には返さなきゃいけないレンタカーを毎日磨いて、パーツを交換して、ガソリンを満タンにする。
走れる程度にメンテナンスすればいい。 受蘊は無我。
一瞬も止まらない、止めておくこともできない感覚が私、私のものである訳がない。
生まれては消えていく感覚を自由に管理することはできない。風呂に入れば暖かい感覚を味わうことができるが、
それが期待どおりのものとは限らないし、それを永遠に留めておくこともできない。
感覚は因縁により管理されているものであって、私が管理している訳ではない。
痛みなどの感覚も、自分が勝手に「これは痛みである。」と認識して、勝手に嫌っているだけ。
実際にあるのは喜ぶべきものでもなく、嫌うべきものでもない、名前のついてない、ありのままの感覚。
どこにも「痛み」「かゆみ」「美味い」「不味い」「うるさい音」「きれいな音」なんてものは無い。
感覚にしっかり気づいて、妄想しないでいられれば、そこに「私」というものは生まれない。 想蘊は無我。
思考、知識、見解もまた、私ではなく、私のものでもない。
頭の中にある概念は全て、生まれてから周りに教えられて獲得したもの。
他人からコピーさせてもらった文章を自分のものとして発表すれば大問題になる。
他人から与えられた概念を組み合わせて新しい概念を作るとする。その場合でもやはり自分のものとはいえない。
原因として与えられる概念が無ければ、結果としての新しい概念は生まれないから。
そしてまた、新しい概念が原因となり、さらに新しい概念を生む。古くなった概念はいずれ忘れさられる。
さらに思考、知識、見解は常に頭の中に固定してあるのではない。
因縁により、意志により、条件が整った場合に頭の中に表れ、条件が無くなれば消える。
生まれては消えていく思考、知識、見解は私ではなく、私のものでもない。 行蘊は無我。
あれが欲しい、これが欲しい、ああなりたい、こうなりたいという意志は私のものか。
何かの対象に吸い寄せられているだけであって、私の意志じゃない。
対象が無いとき、もしくは対象に興味が無いときには欲は起きないのだから。
あれを見たり、これを聞いたり、それを触ったり、瞬間瞬間に生まれては消えていく意志もまた、私がコントロールしている訳ではない。
何かの因縁で生滅しているだけの意志は私、私のものではない。
何かの対象に心を集中すればサマーディに達する。それは意志の力ではあるが、その意志はどこから生まれたか。
あらかじめ、サマーディに対する情報、欲求があったからこそ生まれた意志。私の意志ではない。
悟り、涅槃を目指すという意志はしっかりと起こすべきである。それは私の意志だと思っても良い。執着しても構わない。
ブッダも阿羅漢も元はただの人間だった。自分も人間である。涅槃に達することができて当然だ。
毎日の生活に振り回されているのは情けない。私は死んででも涅槃に達するという、鉄のような意志、誓願をしっかり起こすべきだ。 龍樹の空の思想に対する批判で、涅槃や四諦も空なのかというものがあるけれど、
龍樹はどのように反論しているかわかりません。知ってる方いましたら教えてもらえないでしょうか?
ウィキペディアは見たのですが、説明が分かりませんでした。 識蘊は無我。
マハシ式ヴィパッサナーをやれば識蘊がよく分かる。
人間はものすごい速さで物事を認識している。「音、音、吸う、右足、かゆみ、見た、左足、音、吐く。」
それら認識は自分で認識しようと思ってやっている訳じゃない。因縁によって自然に起きている現象。
「ネコ」だという認識は嫌だ、「犬」だと認識しよう、と思ってもできない。
ネコのような光が眼に入った瞬間、「ネコ」という認識が生まれてしまう。
識蘊が無我であることは、涅槃に入らないと分からない。
識は、そこにそれが「ある」という認識そのものなのだから、そこに実体が「無い」、無我である、という事を認識では理解できない。
認識を止めることによって初めて、識は無我である、ということが分かる。
ではどうすれば認識は止まるのか。
まず戒を守る。戒を守らなければ、どうしても心は動揺してしまう。動揺した心は止まらない。次々と認識を生みだす。
次に感覚をしっかり感じる。感覚をしっかり感じれば、それはただの「音」では無く、瞬間で変化している「それ」になる。
次に思考を止める。無我を悟るまでは、思考自体が認識の塊のようなもの。しかし考えてしまったものはしょうがない。
思考が生まれ、消えたことを確認して、感覚の観察に戻る。 >>698
wikiの説明そのままじゃない?
お前らは空を理解してねー、空だから涅槃も四諦も成り立つんだ 的な 涅槃の体験が空を体験していることに他ならない。
一切の概念には実体は無かった。眼耳鼻舌身意は作られたものだった。と理解することは、
涅槃を体験、空を体験するということ。
一切が空だと分かれば、見るもの、聞くもの、感じるものに対する欲が無くなる。
すなわち渇愛が無くなる。渇愛が無くなれば四聖諦が完成する。 >>703
釈迦の四諦も涅槃もさっぱりわからない。
こちらが理解できるまで説明してくれ。 >>703
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=5343&id=66474415
上のmixiのログインしなくても読める箇所だけでも読むと大分理解が進むかもしれません。 >>705
僕が説明するよりウィキペディア見た方がいいですよ
>>706
ありがとうごうざいます。 四諦と縁起をひとまとめにして、その有り様を表した言葉が「空」だと思う。
あるいは、勝義諦と世俗諦をひとまとめでも同じことだと思う。
ということは「悟り」と言い換えても同じはず。
例えば、身体のことを「上半身と下半身」という風に、二つに分けても、
「五体」と五つに分けても、結局同じ「身体」を指している。
本来、そこに上下優劣はないはず。
あくまでIMOなので、間違ってたらごめん。 諸行無常、一切皆苦、諸法無我はブッダの言葉。
一切皆空はブッダの言葉じゃない。どうしても一段落ちる。たとえそれが真理だとしても。
だいたい一切はサンカーラなのか、ダンマなのか。どっちもなのか。
いずれにせよ、あまり使わないに越したことはない。 確かに。
いくら象を論評しても、盲の目に光は点らない。
パーリ仏教を信奉できる人というのは、仏説をそのまま受容できる機根という
ことだろうから、わざわざ仏説をそのまま需要できない人向けの方便を使う
必要もないと思う。 言語的に高度に洗練された仏法の説明って、
群盲に向けて象を語り尽くすってことだから、
仮にそれで象の姿が伝わったしても、
盲が治るわけじゃないと思うんだよね。
その意味では、多くの大乗部派の高度化って、脱線の歴史でもあると思う。
率直に言ってしまうと。 教学、理論にかたよると脱線するみたいだね。
実践をメインにしないと。 じゃあ今日の実践を書き込み。
昨日より無常というものが身近になった。
私は車が好きで、執着があるんだけど、今日はなぜか無常を昨日よりリアルに感じて、執着が減った。
そんな一日だった。
明日はマインドフルネスを意識しようかな。 ちなみにBMWが好き。
でも無常を感じて、気にしてもしょうがない、という感じを強くした。
まだ執着は残っているけど、かすか。 乗り物を所有する願望あるけど
理由は自由や解放を感じらると
思っている部分がある
でも所有してみると
とても沢山の制約に縛られて
自由や解放なんてほんの少しで
やらなければいけないことばかりが
とても増えるだけなのを経験する
結構そういう感じで
所有したいものが減ったな >>552
>例えば概念としての「ネコ」は過去、現在、未来、変わらず有るでしょう、と言いたいのが説一切有部だと思いますが、
ちゃいます。それだと人有我になりますよ。 でも所有欲って色欲、無色欲も関係してそうだよね。
車とかのモノは欲界に属するものだけど、
色界、無色界にも影響を及ぼしているのかなと思う。
この考察、てんで的外れだろうか。 >>574
それはそうでしょ
普遍なる本当の「勝解」や「信」がイデアとして唯一存在するのではなく、性質の変わらない(自性)法として、個々の勝解や信がいくつも存在するのだから
イデア論というより原子論に近いですよ、説一切有部は >>714
私も物への執着が強いです。
自分で勝手に価値を入れて執着しちゃう自作自演の世界は虚しい。 >>719
無常を悟って執着するにはあたらないとするしかありませんね。
少なくとも私はそのように感じます。 >>715
>自由や解放なんてほんの少しで
>やらなければいけないことばかりが
>とても増えるだけなのを経験する
ガソリン代、最近高止まりですね。
燃費の良いバイクに乗っていてもちょっとお財布つらいww
年間2万キロ近く走るので、これが生きがいなのです。
自由と解放は体中で痛いぐらい感じます!!!!
奪われると泣きますねwww 無常を悟ると目に見えるもののほとんど全部が空しく感じるようになるんだよな
きらびやかなものも、つまらない、むなしい、ものがなしい、そのように感じる まあ中途半端に悟ってる自分でさえそのように感じるんだから、
自分より上の世界を見ている人は、また違うような認識なんだろうな >>707
やはり、わからないんですね。知ったかぶりごくろうさまです。 >>724
あなたは微塵も悟っていないからご安心あれ
悟ったという妄想を慰めに生きるのみです >>632
それはプドガラ説だね
五蘊と同じでも、五蘊と異なるのでもないプドガラが存在するっていうね
中村元氏の非我的有我説はヤージュナヴァルキヤの焼き直しの解釈だけど
有我説ってパターンが決まってるね 五蘊以外の何かがあるような気がするってすごい感覚だな 学道の人すべからく貧なるべし
学道の人は後日をまちて行道せんと思ふことなかれ
学道の人、自解を執することなかれ まず仏道修行者は貧乏でないと。
自分は一人暮らしの時、テレビもパソコンも本も捨てた。
生活の為にアルバイトを最低限やり、終われば適当なご飯を作って食べ、寝るまで瞑想した。
部屋には小さなテーブルしか無かった。
自炊をしてたから、キッチンは充実してたけど。
いやぁ、楽しかったなぁ。
それでもやっぱり、料理とかお菓子作りに執着が生まれてしまったなぁ。
なかなか無執着の生活は、在家では難しいね。 維摩居士は実在するか怪しい。
龐居士は実在するっぽい。そしてド貧乏。 よく大乗経典だ小乗経典だと分けて、小乗は大乗に劣るのだというようなことをいう人がおります。
そもそも大乗とは「悟りの世界である向こう岸に、みんなでいっしょに渡りましょう」といって乗り込む大きな船のことです。
そして小乗とは、自分ひとりだけ悟りを開こう、彼岸に渡ろうとして乗り込む小さなボートといえば、わかりやすいでしょう。
大乗と言いながら自分中心の生活をしている人もおりますし、また、小乗であっても、人さまのことを心から心配してあげる人もおられます。
マザー・テレサ女史は、相手に、どの宗教の信者であるかを、まずたずねます。そして、その人が最期のときを迎えると、イスラム教徒であればコーランを読んであげる。ヒンズー教徒ならばガンジス河の水をかけてあげるのです。
女史ご自身は敬虔なクリスチャンなのですが、相手に応じて、宗教・宗派の違いを超えた奉仕をしておられるのです。
そこには、信仰の違い、宗派の違いといった壁はまったく存在しません。あるのは愛だけです。
女史こそ、まさに大乗の人というべきでありましょう。 お人好しだなあ、カトリック神父、修道女なんか全員合法的スパイだぞw
だから未だにバチカンは強いんだよ あなたは、強いとか弱いとか、そういう世俗的な理由で宗教をやっているんですか? 陰謀論者の最期のときはどんな奉仕をしてあげたらいいのかな >>738
あのね、ローマ教皇なんてものは歴代ろくなもんじゃないのよ?
おもっきり世俗の組織だよあんなもの
>>739
陰謀論ではないね、事実 自分は、カトリックなんぞに比べたら仏教は遥かに素晴らしい宗教だと思うけど
それでも、権力という意味ではカトリックの方が絶大だという事実は認めなければならない
宗教の衣をかぶりながら、ヤクザ、チンピラ、海賊みたいな連中がトップを務めてきた
世俗を統治する巨大組織だからだよカトリックは
オメーラ二人、悟ってたとしても単なる勉強不足 スブーティ、お前はどう思う?
いわゆる預流果の境地に到達した人がいるとして、その人は「よっしゃ!オレは預流果レベルになったぜ!!」などと考えたりするだろうかね?
いや、それはないですね。
だって、「境地を獲得した」などといったところで、実際には何も得てはいないのですよ。
強いて言うなら、その人が得たものは「見ることも聞くことも、嗅ぐことも味わうことも、触ることも考えることもできない」ものなのです。
もしも「今のオレは預流果だ!」などと考えるようであれば、その人には「自我=自分は存在する」などという恐るべきカンチガイが思いきり残っていることになります。
そんな人は「自分以外のもの」が存在すると誤解し、「物体が存在する」と誤解し、その他の愚にもつかない執着をどんどん強めていくばかりです。
そういう人が聖者への流れへ乗ることはあり得ません。
そんなわけですから、預流果に達した人は、決してそれを意識しません。
だからこそ、預流果なのです。
金剛般若経 自分の立場から、自分の尺度で解釈した、
自分にとっての正しい仏道実践のあり方を
自分とは違う立場、自分とは違う尺度を持った人に
押し付けないで欲しい。
少なくとも、その自分基準で人を裁くのは止めて欲しい。
貴方にとっては、それが最善だということは認める。
わたしにとっては、わたしにとっての最善がある。
なぜなら、違う人生を生きているから。 金剛般若経の現代日本語訳のコピペを貼ったのがお気にさわったのなら、謝ります
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