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「尊者ナーガセーナよ、次の世に生まれかわるものは何ものなのですか?」

「大王よ、実に名称・形態が次の世に生まれかわるのです」

「この〈現在の〉名称・形態が次の世に生まれかわるのですか?」

「大王よ、この〈現在の〉名称・形態が次の世に生まれかわるのではありません。大王よ、この〈現在の〉名称・形態によって、
あるいは善あるいは悪の行為(業)をなし、その行為によって他の〈新しい〉名称・形態が次の世に生まれかわるのです」

「尊者よ、もしもこの〈現在の〉名称・形態が次の世に生まれかわるのでないならば、人は悪業から免れることになるのではありませんか?」

「大王よ、もしも、次の世にまた生まれることがないならば、人は悪業から免れるでありましょう。大王よ、しかしながら〈実際には〉次の世にまた生まれるが故に、悪業から免れないのです」

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※ここにいう名称・形態とは周知のように、名称が精神、形態が身体にあたる言葉です。


ここで、業の問題が出てきましたね。ナーガセーナはあくまで無我説のうえに立って、名称・形態が次の世に生を結ぶことを主張している。

そして、次の世に生を結ばせる原動力が、前世における名称・形態による業であると述べています。

つまり、仏教では、人間は現象してくる五蘊の法が輪廻することを認めるのであって、恒常的な実体や霊魂を否定しているのです。
五蘊の法は、まさに、変化しつつ連続しているのですが、その間になす業(行為)によって、次の世の五蘊を結ばせる、といっているわけです。

仏教の無我による輪廻説を理解するには、不一不異、つまり、一ならず異ならず、という考え方を基調にしないと、わからないということです。
それと同時に、生死、生死と繰り返していく、その根本の原動力としての業の考え方です。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b)