>>906

>そう言うのならそこに無我(アートマンがないこと)についての記述が殆どないこ>との説明をまず君がしないとね
>信用に足る文献はそれしかないと君が思っているのならね

まず、仏教における基礎知識として・・・・・
全ての経典において、「アートマンはない」との断定記述はありません。
このことは知ってるかな? (だから、中村元などが、非我論を展開することにもなったわけだがw)

そして、スッタ二パータの4章と5章だが、一体どういう読みをしてるのかな?

4章では、「見解を立てることの否定」・・・・即ち、当時のヒンドゥーにおけるアートマンの
主張に対するアンチテーゼなんだが・・・

5章の内容は、まさにほぼ有我論の排斥で貫かれてるんだがw
特におすすめはw

1119の「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界が空なりと観ぜよ。
そうすれば死を乗り越えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、<死の王>は、見ることがない。」

かな?w


さらに、補足しておくと、俺は何もこの最古層文献しか信用するに値しない なんて言ってないぞw
その他の初期仏典の中にも釈迦の金口はあると思っている。
また、同時に後代の付加、増稿、曲解なども山のようにあるので、取捨選択は必要というスタンスだよ。

だから、「経典に記述がある」⇒「それは釈迦の教説。あるいは事実」なんて単純な見解はとらないw

そして、現在、「釈迦は、輪廻業報論を少なくとも自己の教説の一環として説いてはいない。
(倫理的要請などから、言及はしたと思うが)」 とする立場の学者さんは多いのだよ。

その論拠が主に二つ・・・
@最古層文献における輪廻業報論の記述に関して・・・・これは複数の学者が文献を精査して論証している。
A無我との論理矛盾・・・・こっちから、否定する学者の方が多いがね。そして、現時点まで、このAの矛盾
 解消に成功した肯定論者はいません。代表的なところでは、スマ、魚川、佐々木・・・など、その著作を
 読んでみればわかるが、決してそこには深くふれないで、誤魔化しますw

・・・・・ということですよw