【相応部経典 4.六処篇 無記相応 10.アーナンダ経】

 時にヴァッチャ姓(ヴィッチャゴッタ)の遍歴者は世尊のいるところへ行き、世尊と・・・一方に座った。
一方に座り終わってヴァッチャ姓の遍歴者は世尊に言った。

 君、ゴータマ。我(アートマン)は有るのか。

このように言われたが世尊は沈黙していた。

 君、ゴータマ。それならば、我は無いのか。

再び世尊は沈黙していた。

 ここにおいてヴァッチャ姓の遍歴者は座から立って去った。
時にヴァッチャ姓の遍歴者が去ってまだ間もないときに、尊者アーナンダは世尊に言った。

 大徳、なぜ世尊はヴァッチャ姓の遍歴者に質問されて返答されなかったのですか。

 アーナンダ、私がもしヴァッチャ姓の遍歴者に「我は有るのか」と問われて、「我は有る atthattā」と答えれば、アーナンダ、これはSassatavāda(常住論)を説く沙門婆羅門たちと同じになるだろう。
 しかしまた、もしアーナンダ、ヴァッチャ姓の遍歴者に「我は無いのか」と問われて、「我は無い natthattā 」と答えれば、アーナンダ、これはUcchedavādā(断滅論者)を説く沙門婆羅門たちと同じになるだろう。
 アーナンダ、私がもしヴァッチャ姓の遍歴者に「私は有るのか」と問われて、「私は有る」と答えれば、
私は「一切の法は無我である(sabbe dhammā anattā)」という智慧の発現に順応していることになるだろうか。

 大徳、そうではありません。

 アーナンダ、私がもしヴァッチャ姓の遍歴者に「私は無いのか」と問われて、「我は無い」と答えれば、アーナンダ、愚かなるヴァッチャ姓は「先には私に我があったのではないのか、その[我]今は無い」と、ますます愚かになるだろう」