宝珠には、

 「文脈で」 という言い方が、未だに理解してもらえない・・・ orz

仏典に書いてある書いてないでなく、どのように解説(注釈・伝承)されたか、でもなく、
提示された、及び、インド宗教思想の考古学的分析の上でも文献学的分析の上でも、
(そして、あらゆる、『仏教的手法による』瞑想に於いても)、
あらゆる情報を総合して、全方位分析した時、
その時どこに「アートマン」が「真我」が見出し得るだろうか?(【必要】だろうか?)
ということなんだけどね。

そして勿論、『仏教的手法』を用いないならば、
それは仏教ではないし、ゴータマの系譜でもないのは理の当然。