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--佛教論議の伽藍スレ-- 第一巻
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0001宝珠真範垢版2018/06/26(火) 15:00:52.45ID:tJY6WIHj
仏教に関するKeyword
「無我」と「アートマン(我)」、「輪廻」や「涅槃(ニルヴァーナ)」などについて、
原始経典(「パーリ五部聖典」や「漢訳四阿含経典」)に説かれているブッダからの教説を中心にして、
激しく議論したり、または有益な情報を互いに交換するためのスレです。
尚、自説の主張に際しては、最低限の論拠や根拠を併せて提示されますよう宜しくお願いします。
基本的に仏典(原始経典)の記述を根拠にしていることが大前提ですが、
もし、そうでない場合には明確な理由を必ずしっかりと説明して下さい。

-------------------当スレの戒律(マナーとルール) -------------------
条項 1.コピペ・アスキーアートは原則禁止(議論に使用する為の真面目な図解については可)
   2.文章、三行以下の投稿は連投を禁止します---落書き帳やメモ帳ではない
    (チャットような使い方はすぐ1000レス使い切るので辞めて下さい。もっと内容を一つに纏めてから投稿しましょう)
   3.一行明け投稿や無駄な空間を使用した投稿は遠慮願います。
   4.意味の無い無駄な投稿は完全な犯罪級の荒らしです。スレ主である私(宝珠真範)の判断で即刻、退場してもらいます。
   5.南伝仏教(または上座部仏教/南方仏教..)を「小乗仏教」と呼称することは差別用語なので使用禁止です。
    (1950年の世界仏教会議にて決議した)
   6.議論でヒートアップしても相手を不当に侮辱した言葉を使わないこと(節度ある態度で接しよう)
   7.仏教徒として当り前の話ですが、ブッダを侮辱する意味の言葉は厳禁です。即刻、退場してもらいます。
   8.次スレを立てる際は、勝手に「スレタイ」や「テンプレ」(レス番2の戒律と資料リンク含む)を変えないこと。厳守!!
 以上ですが、基本的には参加者皆さんの良識に期待します。
06591/2垢版2018/07/16(月) 22:13:23.81ID:D3timmXP
参考1:
Pabhassara (adj.) [fr. bhAs] shining, very bright, resplendent
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/35/1/35_1_38/_article/-char/ja/
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/20/2/20_2_503/_article/-char/ja/
ttp://fallibilism.web.fc2.com/051.html

参考2:(一部隠居用餌) 、 (墨括弧は引用者挿入。大括弧は引用者による註。)
ttp://www.journalarchive.jst.go.jp/japanese/jnlabstract_ja.php?cdjournal=ibk1952&cdvol=20&noissue=2&startpage=503
「心性本浄の意味」水野 弘元/印度學佛教學研究, Vol. 20 (1972) No. 2 pp.503-511 (著作選集2巻p219〜)

 『心性本浄説については、今日までわが国多くの学者によって取り上げられ、すでに論じ尽くされているといってよい。
 しかし、本浄説の源流は阿含経の原始経典、パーリ仏教や法蔵部などのような上座部系の文献にも見出され、
 それは大衆部系の心性本浄説から発達したとされる大乗仏教における如来蔵説や仏性説では、
 清浄なる本性としての【常住不変とも見られる心性】が考えられているのに対して、
 原始仏教や上座部系の部派では、そのような常住の心性は考えられず、
 【むしろ現象として生滅変化する心相が清浄であると】説いていると考えられるからである。
  元来原始仏教では、外教で説くような常住不変の実体を問題とせず、経験可能の現象界だけを考察して、
 これを一切法と呼んだ。従ってそこには常住の心性というような考えが入る余地はないのである。
 周知のように、仏教が【存在するもの(一切法)】として現象界だけを考察の対象としたことは、
06602/2垢版2018/07/16(月) 22:13:52.35ID:D3timmXP
 外教の説く形而上学的実体を排除するためであった。ところで積極的自主的に作用する心のあり方について、
 外教ではこれをどのように説いていたかといえば、正統派[バラモン、ウパニシャッドの系譜]と
 非正統派[正統以外の遊行者達、沙門と呼ばれる系譜]ではまったく違った解釈をしていた。
  正統派では転変説(pariNAma-vAda)[≒継続するモノの変化変遷]に立ち、
 有機的な生命体としての我(Atoman)という実体を立て、これを不生不滅の本体的存在とした。
 我は心の中心となって自主自律的に活動する主体である。
 これに対して、非正統派では積集説(Arambha-vAda)[≒物質的、機械的集合離散及び作用による存立]に立ち、
 精神的存在をも物質的に考え、我(霊魂)を不生不滅の本体であると説くとしても、
 それは自主的な積極活動をなすものではなく、他の力によって機械的に動かされるにすぎないとした。
  周知のように、仏教では外教の本体説と違って、【心を生滅変化する現象としてのみとらえ】、
 心に自主自律の積極作用があるとしても、それは他の種々なる条件(縁)によってはじめて作用するという
 無我縁起の説を立てた。
  このように仏教では生命活動や精神作用を自主自律のものとして認めるとしても、
 【その奥に常住の本体があるかないかはこれを問題とせず】、【現象として表面に現れているものだけを】考察した。
 この意味の生命や精神の自主的活動力のことを仏教では根(indriya)と呼んだ。[生物学的器官も含。]
 根の概念は仏教以前のウパニシャッド等で既に説かれており、仏教もこれを採用しつつ、仏教独自の立場から解釈した。』
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