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--佛教論議の伽藍スレ-- 第一巻
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0001宝珠真範
垢版 |
2018/06/26(火) 15:00:52.45ID:tJY6WIHj
仏教に関するKeyword
「無我」と「アートマン(我)」、「輪廻」や「涅槃(ニルヴァーナ)」などについて、
原始経典(「パーリ五部聖典」や「漢訳四阿含経典」)に説かれているブッダからの教説を中心にして、
激しく議論したり、または有益な情報を互いに交換するためのスレです。
尚、自説の主張に際しては、最低限の論拠や根拠を併せて提示されますよう宜しくお願いします。
基本的に仏典(原始経典)の記述を根拠にしていることが大前提ですが、
もし、そうでない場合には明確な理由を必ずしっかりと説明して下さい。

-------------------当スレの戒律(マナーとルール) -------------------
条項 1.コピペ・アスキーアートは原則禁止(議論に使用する為の真面目な図解については可)
   2.文章、三行以下の投稿は連投を禁止します---落書き帳やメモ帳ではない
    (チャットような使い方はすぐ1000レス使い切るので辞めて下さい。もっと内容を一つに纏めてから投稿しましょう)
   3.一行明け投稿や無駄な空間を使用した投稿は遠慮願います。
   4.意味の無い無駄な投稿は完全な犯罪級の荒らしです。スレ主である私(宝珠真範)の判断で即刻、退場してもらいます。
   5.南伝仏教(または上座部仏教/南方仏教..)を「小乗仏教」と呼称することは差別用語なので使用禁止です。
    (1950年の世界仏教会議にて決議した)
   6.議論でヒートアップしても相手を不当に侮辱した言葉を使わないこと(節度ある態度で接しよう)
   7.仏教徒として当り前の話ですが、ブッダを侮辱する意味の言葉は厳禁です。即刻、退場してもらいます。
   8.次スレを立てる際は、勝手に「スレタイ」や「テンプレ」(レス番2の戒律と資料リンク含む)を変えないこと。厳守!!
 以上ですが、基本的には参加者皆さんの良識に期待します。
0540神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/10(火) 21:24:38.77ID:pkSPAW9a
274 旧7 sage ▼ 2009/07/12(日) 18:56:40 ID:zCn+3f+Z [7回目]
1:不死と言われる理由
    → 《凡夫としての》《輪廻の中にある生死》が無い。
      仏、阿羅漢、如来には「死」がない。
      何となれば、≪「死」は、因により縁により生じる「果」であるから≫。
      仏や阿羅漢、如来には、「死」があるのでなく《「(五)蘊の滅」があるのみ。だから「不死」。》
      《「輪廻の中にある“次の生”」が無い。だから「不生」。》

        ※「“不死”だから“常住”」ということではない※

2:主体が不要である理由(涅槃もまた無我であると言われる理由)
    → 完全なる寂滅の境地であるが故に、
      そこに、≪「誰それ」という個別性はない≫≪「誰それの涅槃」というものではない≫
      完全なる寂滅という「一色」「一味」であるが故に、
      そこに「アートマン(という個)」はありえない。

3:常住である理由
    → 生じたのでなく、作られたのでない寂滅は、
      「一切の作用が止滅した」境地であり、生じるでもなく、
      またその寂滅という境地が滅するでもなく、
      何かによって(たとえば“主体”“アートマン”等によって)維持され継続されるのでなく、
      縁によって生じ滅するものでないから、常住である。  (・・・・・後代の「自性」との共通性有。)
      《所縁のものでない》から常住と言われる。だから(「不生」であり)「不滅」である。

        ※「“不死”だから“常住”」ということではない※

4:常住であることが、主体(アートマン等)を必要としない理由
    →>>165及び上記2から、主体が要請されることはない。
     また、3にあるように、所縁のものでないから常住たりえているわけだが、 (・・・消極的常住?www)
     それは、一切の、完全なる寂滅であるが故であり、
     《何がしかが常住たらしめている》のではない。 (・・・積極的常住?www)
     もしそうであるなら、それは(互いに)所縁のものとなってしまうだろう。
0541おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/07/10(火) 21:49:28.38ID:Ks6rrkcw
 
たとえば

「…である」と定義することはできない

『「…である」ものではない』に依存しているのなら

涅槃ではなく

>(互いに)所縁のものとなってしまう

仮設としての縁起に働きかけている

サーンキヤの場合
(絶対的な)プルシャからの → プラクリティ

(縁起ではない)プルシャからの → プラクリティという

「インド思想の”強い癖”?」という感じがする

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E6%8C%81
密教においては
仏が大悲・大智によって → 衆生に応じる
衆生が ← 仏の大悲・大智を受け入れる
0542神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/10(火) 22:18:08.70ID:pkSPAW9a
ああ、読み返してみたら、今の流れに合致するw
よって、URのみ貼る。 (宝珠のサイトにはログがある)

【最終】輪廻転生説はどう扱うべきか!?【決着】4
http://gimpo.5ch.net/test/read.cgi/psy/1260569824/361
http://gimpo.5ch.net/test/read.cgi/psy/1260569824/363-366
http://gimpo.5ch.net/test/read.cgi/psy/1260569824/368-370
http://gimpo.5ch.net/test/read.cgi/psy/1260569824/374-375


全部で10レスあるので、強い要望があった際には、ちょっとずつ貼ることも吝かではない。
いずれにしても、これまで及び今後の宝珠への反論も、上記及びその上のリンクで120%賄えるものであるw
0543神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/10(火) 23:10:10.96ID:I/l2BEsU
9年も前から…
宝珠氏が立ち上げられたこのスレの住民になるということはそういう泥沼に陥る覚悟が必要というのがよく分かりましたw
私には無理なのでドロップアウトします
0544因縁果 ◆d........o
垢版 |
2018/07/11(水) 04:46:26.68ID:uThCTLhv
まさにそれが輪廻転生の本質だな^ ^
0545神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/11(水) 07:26:57.47ID:Uo0x82Nh
ああ・・・・

↓のやりとりは、今のこのスレのデジャビュだわ・・・w   orz

〔「無為なる意識?」 URL集〕
仏教 議論スレッド その3
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1274492365/643


つか、水野論文もw
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1274492365/491
> 「無為法について」 水野 弘元 印度学仏教学研究 10(1), 1-11, 1962-01
> これ↑が読めるといいんだけどなw PDF化されてない。
> 選集第2巻(p407-424)には収められているんだが・・。
> 今の流れに“ぴったり”該当する箇所も(幾つか)あるが、
> 引用するにはちょっと長いw (キーボード打つのも面倒だし・・w)
> さて、どうしたものか・・・ (;´ー`)y━~~
0546因縁果 ◆d........o
垢版 |
2018/07/11(水) 07:41:08.49ID:u2cs9/Ba
仏と自己を分別するのがまだまだだな^ ^
0547おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/07/11(水) 07:51:55.66ID:dYp6B+5Y
 
↓無爲法について 水野弘元

ttps://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/10/1/10_1_1/_pdf/-char/en

説一切有部を代表とする部派佛教、
及びこれをうけた喩伽行派では、
三切法を
色法・心法・心所法・心不相慮法・無爲法の
五位に分類するようになつた。
この分類は、原始佛教では全く知られないものであり、
部派時代の阿毘達磨において、始めて現われたものである。
しかも阿毘達磨の初期時代には五位が明確でない。
説一切有部の阿毘達磨についてこれを見るならば、
五位の分類が明示されているのは、
七論中でも最後の獲達段階に屡する品類論においてであり、
パーリ佛教では七論や註繹書にもこの分類はなく、
後世の綱要書に始めて出ている程度であり、
また舎利弗阿毘曇論は五位をはつきり分類していない。
然し五位の要素となるものは、諸部派において、
初期又は中期の阿毘達磨時代から、
部分的には掲げられている。
0548宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/07/11(水) 14:53:27.38ID:sFGMSHGh
>>543
どーしたぁ?
お〜〜〜〜〜ぃ(涙目)

ホント...もうすぐ十年なのか..
(コレ全部、セブンが悪いんだよぉ〜)
0549宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/07/11(水) 14:54:58.47ID:sFGMSHGh
>>533
はい、修正再upお疲れさ〜ん♪

まぁ..「幽体」が消えたから取りあえずは良しとしますけど
(しかし、十分に納得する図ではないから)。
とにかく“私(宝珠)の提示したものではない”ということだけは明確にお願いします。
あくまでも、あなた(セブン)の理解によるものです。

それと、一つだけ感想意見です。その「初期の構図」というのは、
何かまるで「初期仏教」であるかのような印象を受けるものなので良くないと思う。
「部派的構図」というのがその下にあれば、尚更のことです。「一般的理解」とか何か他の名称にすべきかと....。
まっ、わたしが作成した作成資料ではないので任せますけど。
0550宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/07/11(水) 14:59:25.75ID:sFGMSHGh
>>539-540
何も...
そういった仏教的視点というものについては
必ずしも私も否定しない。
特には、否定しないでおくから(笑顔)

>>542
>いずれにしても、これまで及び今後の宝珠への反論も、上記及びその上のリンクで120%賄えるものであるw

どうして、そうも強気で居られるのかが不思議。
強がりなのか...意地になってるのか...それとも?

あの〜〜もう、決着はついたと思うけれど?
たとえ気に入らなくても、それがゴータマブッダの教え方だということ。
少なくとも、仏典上の記述ではそういうことになるのだから、もがいてもショウガナイでしょ。

要するに、
一切法(有為)の中には涅槃(無為)は入ってないから。
であるから、元々から現象界を超越している無為的性質であるアートマンに対して、
テーラワーダ信者が執拗に長老の説法書籍を提示してるけれども...
それら有為法の縁起やら、無常やら、無我/空...やらの理論などまったく通用しないのだということ。
そして、ゴータマは「アートマンが無い」とは述べたことはなく(そういった存在論そのものを扱わないから「云わない」)、
単に、「非我」としてアートマンではないものをアートマンと見なす愚を戒めているということに過ぎないから。
「アートマンは無い」そのものが存在論なのであり、そういうのが部派のアプローチなのです。
本来、ゴータマの教説にはなかったものを勝手に「無い」ということにしたのが彼らです。
それが彼らの至宝『アビダンマ』ですよ。彼らは自分らの部派論書を読み、
それに帰依してるのです。仏典にではない。以降〜すべての仏教諸派はその影響を受け、
伝統と称して二千年間、それを伝承してきたのです。

こうして真実が明らかとなり、また一歩、真理へと近づいたのです。
気持ちを切り替えて互いに邁進しましょう。

以上にて、論決
0551神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/11(水) 15:28:32.83ID:Uo0x82Nh
>>550
へぇ・・  「涅槃」は、「法」じゃないんだw
インド思想に於いて、「法」以外に何があるんだろうか? (´・ω・`)


百歩譲って、「縁起する諸法」ではない、という意味で、「一切法(”壊”法)」に入ってないとしても、以下添削w

× >一切法(有為)の中には涅槃(無為)は入ってないから
     ↓
○ >一切行(有為)の中には涅槃(無為)は入ってないから


>少なくとも、仏典上の記述では
この辺も、
方が、一在家並みの裏読みをしてるだけで、
一代始め諸氏から山ほど提示されてきたろうに・・・w  どこ読んでんだか・・ ┐(´ー‘)┌
0552宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/07/11(水) 15:42:01.66ID:sFGMSHGh
>>537
では、コレは応えておきます。

>端的に言おうか。
>  「境地」なるもの(≒意識の状態)が、
>  無始劫来の太古から、存在し続けるという「ことわり」(法・理)があり得るのか?と。

そういうものなのだからショウガナイでしょ! 
文句をいうような話しではないから。
この世界はあなたが作ったものじゃないからね (あなたの思い通りのものではない) !
では、逆に問うわ。ならば、縁起の法はいつから始まったの? 
そういうこととまったく同じであり、それは云わば“無始の初めから”であり、
そして、また無記時な性質のものになる。
それらの「法」そのものが無始の初めから永遠に続くものだとして、
「法」そのものを永遠の存在としたのが「説一切有部」でしょう。
その視点はいいのだけれど、「存在」にしてはいけないというのが仏教ルールなんだな。
涅槃の境地は永遠であり、それを覚知してる意識(主体)も永遠だ。
で、最大の不思議ミラクルといえる涅槃に達して悟るものというのは、
もともとこれが本来の自己意識だったのだと初めて自覚することにある。
まっ、その辺はシャンカラ著『ウパデーシャ・サーハスリー』を読めば詳細ですよ(仏教枠では無理か...。
0553宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/07/11(水) 15:42:38.21ID:sFGMSHGh
>ちなみに問う。
>存在ではない、2500年前のAさんの境地と、西暦2018年のBさんの境地は、同か異か?

ん、涅槃のこと???
涅槃にあるものの意識というのは、個のものでありながら個の垣根を超越しているのです。
つまり、あなたAとわたしBという分離も消えるし、物質(岩石)とわたしという分離すらもなくなる。
すべてのすべてが自分であるという理解も生じる。
尚且つ、そのまま自分という個も理解してる、と。
〜ということ、らしいですよ!

>更に問う。
> 存在ではない境地を知覚する”ソレ”は、存在するのか存在しないのか?

ヒンドゥーの説く“唯一なる実在” は、(涅槃後は初めて「わたし」ということができる)
『なすべきことをなし了え、煩悩の汚れを滅ぼし、今や最後の身体をたもっている真人となった修行僧は、
「わたしが語る」と言ってもよいでしょう。』(SNT,3-5 )の自己のことです。
ただし、仏教的にはそれを「存在」とはいわない。
何故ならば、それは「存在」という言葉の定義を超えたものだからです。
重要なことは、決して「無い」という意味ではないということ。
0554宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/07/11(水) 15:57:10.68ID:sFGMSHGh
>>551
涅槃は「無為法」という「法」。
しかし、無為法は「一切法」の中にはないから。
そんなに「法」という言葉が好きなら、ではこうならばどうよ....

図表.3
---------------「法」------------     
 「一切法」   |   「涅槃」
  (有為法)   |   (無為法)
--------------------------------

* 「行」はこの場合には限定意ではないと水野氏の解説にて説明済です。
  そのことを一代がわかってるわけがないしょ。テーラワーダに洗脳状態なのだから!
0555おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/07/11(水) 16:03:36.25ID:dYp6B+5Y
 
諸行無常:すべての現象は、無常である
一切行苦:色受想行識も苦なり
諸法無我:すべてのものごと(法)は、自己ならざるものである

この場合は

有為法
仮設としての
我である。という『想い』も変化している

無為法
我である。という『想い』ではない
(「…である」ものではない。という『想い』ではない)

で結局のところ
すべてのものごと(法)に
無為法が含まれるのか?ということで
ttp://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%84%E3%81%A3%E3%81%95%E3%81%84%E3%81%BB%E3%81%86
一切法
一切が「縁起した存在」つまり有為法に限定されるのか、無為法をも含むのかなど解釈は一定ではない
  _  _  _

  _  _  _

「…である」ものではない。という『想い』を超えるための
(アートマン。という『想い』を超えるための)

想う。という『想い』も手放して
想わない。という『想い』も手放して

非想非非想も手放して(超えて) : 涅槃寂静みたいな感じ?
0556おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/07/11(水) 16:32:44.19ID:dYp6B+5Y
 
>>555の続き

六師外道だったかもしれない?
ウッダカ・ラーマプッタ師匠からの

『「…である」ものではない』を手放すための法を
(アートマン。という『想い』を手放すための法を)

瓶から瓶へ水を一滴もこぼさないでうつす瀉瓶のように

釈迦が受け継いだのかもしれない?

ttp://suttanipata.com/ae-2/
874 注釈
四無色定(非想非非想その他諸々)
のちの教義を適用した趣がある

かもしれないけど?
0557因縁果 ◆d........o
垢版 |
2018/07/11(水) 16:47:34.36ID:C1F/T3RF
無自性なるものが真理を語ることができるであろうか^ ^
0558因縁果 ◆d........o
垢版 |
2018/07/11(水) 16:49:12.59ID:C1F/T3RF
涅槃は真理の境地でもある^ ^
0560因縁果 ◆d........o
垢版 |
2018/07/11(水) 16:51:17.17ID:C1F/T3RF
ゆえに無為でなければならない^ ^
0563おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/07/11(水) 17:08:27.39ID:dYp6B+5Y
 
スッタニパータ
21
わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが、
激流を克服して、
(縁起している世界を手放して超えて)
すでに渡りおわり、彼岸に到着している。
もはや筏の必要はない
874
(縁起している世界を手放して超えているのなら)
…想いを消滅した者という『想い』でもない
このように理解した者の形態は消滅する
(円成実性の世界から → 依他起性している世界を観照して
  平等性智をもって正見したときに)
けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起る

ということが信解円通する?

ttp://www5.kcn.ne.jp/~kannon/buddhism/MiniSermon201109.html
信から入って解という土台をつくる道がありますし
解から入って信を得るという道もあります
0564おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/07/11(水) 17:59:20.23ID:dYp6B+5Y
 
ttps://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/60/2/60_KJ00007978330/_pdf/-char/ja
法と存在と存在しているもの

わが身, 自己, 自分自身, 主体
さらには自我を意味する一般に周知されている
我(アートマン, 魂, 霊魂) という語があるにも拘わらず
「我ではない」「私の物ではない」とは説いても

「我がある」とは明言しない

ttp://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BR/0095/BR00950L017.pdf
ウダーナヴァルガのギルギット写本

縁起したものを離れることがある』とブッダは説く

ブッダは
そこに来ることも説かず、行くことも、留まることも
死ぬことも、生まれることも説かない
それこそが苦しみの終わりである
  _  _  _

『「…である」ものではない』という法がある
(『「縁起している」ものではない』という法がある)

とブッダは説いているようにも見えるけど?
0565因縁果 ◆d........o
垢版 |
2018/07/11(水) 19:24:14.56ID:vcslrYAc
204.

chanda-rāga-viratto so, bhikkhu paññāṇavā idha.
意欲からも貪りからも離れた、智慧のある修行者は、ここに

ajjhagā amataṃ santiṃ, nibbānapadam accutaṃ.
不死・平安・不滅なる涅槃の境地に達した
0566因縁果 ◆d........o
垢版 |
2018/07/11(水) 19:31:08.48ID:vcslrYAc
智慧のある修行者=真理を見るもの

涅槃の境地=不死・平安・不滅


スッタニパータ によるとこうなる^^

明解やな・・^^
0567因縁果 ◆d........o
垢版 |
2018/07/11(水) 19:33:15.05ID:vcslrYAc
智慧のない修行者が・・あーだーこーだー^^

有為だー無為だーと叫んでいるだけ^^
0568因縁果 ◆d........o
垢版 |
2018/07/11(水) 19:39:12.84ID:vcslrYAc
不死・平安・不滅の境地^^

智慧のある修行者か・・・^^

すんばらしい^^
0569因縁果 ◆d........o
垢版 |
2018/07/11(水) 19:43:07.33ID:vcslrYAc
不死というのは死なないんじゃなくて死と同化してるんじゃないかな・・^^

生死即涅槃とか・・^^
0570因縁果 ◆d........o
垢版 |
2018/07/11(水) 19:46:17.53ID:vcslrYAc
肉体の束縛を離れるといったほうがいいか^^
0571因縁果 ◆d........o
垢版 |
2018/07/11(水) 19:49:02.29ID:vcslrYAc
体が消えまわりの景色に溶け込んだことがあったがその境地だろうな・・^^
0573因縁果 ◆d........o
垢版 |
2018/07/11(水) 20:57:50.29ID:vcslrYAc
4.觀涅槃品第二十五だけど・・^^
0574因縁果 ◆d........o
垢版 |
2018/07/11(水) 21:00:34.28ID:vcslrYAc
何故ならば、
『涅槃』は、
『有( Skt.bhaava≒有為法 )』と、
『呼ばれることはない!』、
『有』とは、
則ち、
『老死の相である!』。
『有』という、
『法』は、
『老死の相』を、
『離れる!』ことが、
『無い!』。

解りやすい^^
0575因縁果 ◆d........o
垢版 |
2018/07/11(水) 21:03:03.18ID:vcslrYAc
復た次ぎに、
若し、
『涅槃』が、
『存在する!』ならば、
『涅槃』は、
『有為ということになる!』が、
終に、
『一法』として、
『無為である!』者は、
『存在しない!』。


なるへそとなる^^
0576因縁果 ◆d........o
垢版 |
2018/07/11(水) 21:06:16.12ID:vcslrYAc
答え、
諸の、
『因縁』を、
『受ける!』が故に、
『生、死』中に、
『輪転する!』、
諸の、
『因縁』を、
『受けない!』ことを、
『涅槃』と、
『称する!』。

うわっ^^

因縁解脱きたな・・^^

とこうなる^^
0577因縁果 ◆d........o
垢版 |
2018/07/11(水) 21:09:24.87ID:vcslrYAc
まぁ・・龍樹ちゃんの言ってることが正しいとは限らないけどね^^
0578因縁果 ◆d........o
垢版 |
2018/07/11(水) 21:11:02.37ID:vcslrYAc
ふ〜〜ん^^

という軽い気持ちで読んだほうが正解^^
0579因縁果 ◆d........o
垢版 |
2018/07/11(水) 21:15:15.23ID:vcslrYAc
龍樹ちゃん涅槃の境地に達したことあるのか?という気もするが^^
0580神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/11(水) 21:39:11.29ID:Uo0x82Nh
1レスで済む話をダラダラ書き込む人間に碌な奴はいない。
0581おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/07/12(木) 00:35:13.57ID:mXJcwMR0
 
ttp://www.geocities.jp/avarokitei/indo-dojo-upanishado/upanishado-tetujin.htm
仏教の思想的土壌 ウパニシャッド

名称と形態(現象界)の展開
かの神(=有)は、生命を与えるアートマンをもって
[現象界の]名称と形態をはっきりと展開した
  _  _  _

スッタニパータ 872
名称と形態とに依って感官による接触が起る
諸々の所有欲は欲求を縁として起る
 − これを対処するために −
(かの神(=有)の生命を与えるアートマンも手放して超えて)
欲求がないときには、〈わがもの〉という我執も存在しない
形態が消滅したときには〈感官による接触〉ははたらかない

中論 献呈歌
何であれ依存的に生じたものは
独自の性質がない
それ自体の自性。という法も『手放して』超えて
それ自体の自性によって成立しているのではない
ttp://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index1.html
チベット ニンマ派
すべての事象は独立してではなく
原因と条件(因縁)から成り立っており、それゆえ常に変化しています
(かの神(=有)の生命を与えるアートマンも手放して超えて)
無常という理に自らの心を馴らしていかなければなりません
0582因縁果 ◆d........o
垢版 |
2018/07/12(木) 04:48:34.76ID:C0VXwjMf
1レスで言えば^ ^

現象界の真理を悟れば身も心も寂滅するんだろうな^ ^
0583因縁果 ◆d........o
垢版 |
2018/07/12(木) 04:57:23.16ID:C0VXwjMf
個からの解脱かー^ ^

無我の境地に必然的に至る^ ^

簡単に言えば執着が消えるということやな^ ^
0584因縁果 ◆d........o
垢版 |
2018/07/12(木) 04:58:39.08ID:C0VXwjMf
自我への執着ね^ ^
0585因縁果 ◆d........o
垢版 |
2018/07/12(木) 05:00:47.13ID:C0VXwjMf
そう言う意味で因縁を受けない涅槃の境地に至るかもしれん^ ^
0586ポッタン師
垢版 |
2018/07/12(木) 06:47:27.66ID:6MIxhGF+
585.因縁を受けない涅槃の境地、か。
因縁が吹き荒れているからして、涅槃の境地である。
私は墓の中で眠っていることはない。
因縁がなければ、涅槃もない。輪廻がなければ、涅槃もない。
0587基地子菩薩
垢版 |
2018/07/12(木) 06:48:19.22ID:Wj8eCgrP
>>585

六道に落ちた亡者では生涯無理にゃん♪

六道地獄に (-∧-)合掌・・・
0589宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/07/12(木) 13:16:05.17ID:PV9YAIUu
>>585
【警告】
 あなたは条項2.に抵触しています。
 スレを無駄に消費するので以降は注意を願います。
 守れない方の参加は堅くお断りします。
0590宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/07/12(木) 15:03:55.54ID:PV9YAIUu
>>519 部派のテーラワーダ長老信者へ
 >>523追記:

では再度、確認させてもらいますから。
テーラワーダ(南方全体でいい)には今、その滅尽定レベルを現実に示せる人というのはいったい何人います?
それは何派で何という寺院にいる何ていう僧侶ですか? その方の個人名をここに上げて下さい。
そして、できればその人について知れる情報源をここに提示願う。
もしも今いないのであれば、それは近年のいつの何処の話ですか?

あなた方はヒンドゥーのやってることはすべて“妄想の類”だと馬鹿にしてるよな?
大乗についても同じく然りで、それらは非仏説でヒンドゥー化したダメ仏教だと。
そして、自分たちだけが唯一、ブッダ直説のパーリ仏教なんだとか自信満々に豪語してる。
ならば、もしもそこまでいうんだったら当然、その本物とやらのレベルの違いを示せますよね?
だから聞いてる。心臓くらいは自分の意志力で好きに停止できるくらいの人のことをだ...。
0591宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/07/12(木) 15:05:10.35ID:PV9YAIUu
いっておくけれども、
己れの無知を恥じること無く自ら露呈して、ヒンドゥー馬鹿にするのも大概にしておいたほうがいいぞ!
仏教瞑想ですら、そのすべてが元々、バラモンヒンドゥーから学んだものだ。
すべてがヒンドゥーにあるのであって、ココこそあらゆる叡智の源泉そのものなんだから。
何? たしかヒンドゥーは有我論だから初禅レベルに過ぎない低い瞑想だとかもいってましたっけ?
その低レベルのヒンドゥーには、近代においても滅尽定レベルがゴロゴロといる。

長老は、ラーマクリシュナも馬鹿にしてたけれども(長老の理解では、アートマンを語ればすべて低レベルだ)、
ラーマクリシュナ最愛の高弟スワミ・ヴィヴェーカーナンダは心肺機能完全停止の仮死状態で一週間後に意識を戻すといったことが何度もあった。
外的には完全に肉体死と同一の状態であり、彼らは自らの深い瞑想の境地によってそのような状態になるのであり、
そして、その定から覚めれば肉体蘇生して通常意識へと戻るわけ。
ヴィヴェーカーナンダは何度も、その境地のあまりの素晴らしい心地良さ(至福の境地といわれる)のために、
もう、そのまま肉体意識には戻って来たくないこと (それは苦痛であるから) を師に嘆願すると、
「この馬鹿者め!」と師であるラーマクリシュナからは、“肉体生存は義務である”と何度も叱られるといったことが続く...。
もちろん、二度と意識を吹き返さない場合にはそのまま肉体死を迎えることになる(それは本人の意志に拠る)...。

パラマハンサ・ヨガナンダも同じくマハー・サマーディ(同様の滅尽定レベル)のままで、
自らの意志で肉体を放棄しこの世を去った(若くして使命を全うしたことによる自殺)。
ヨガナンダはこのマハー・サマーディでヨーガの本物の科学的奇跡を示すといってから定に入った...。。
そしてその通り、ヨガナンダの遺体にはまったく腐敗しないという奇跡の不朽現象が示されたのです。
当然、ヒンドゥーにおいては今日もまったく同じであって、今も随所にそういう驚嘆すべきレベルの聖者が何人でもいる。
ということなので、仏教僧侶たちの状況について提示を願う。

繰り返しいう。
「ヒンドゥーを知らない人しかヒンドゥーを馬鹿にしない」
0592おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/07/12(木) 16:01:31.53ID:mXJcwMR0
 
>滅尽定レベルを現実に示せる人というのはいったい何人います?

↓とりあえず有名な?上座部系の僧

ウ・ジョーティカ・セヤドー
マハーシ・サヤドー
サティア・ナラヤン・ゴエンカ
パオ・セヤドー

パオ・セヤドーの弟子の山下良道僧侶の場合は

阿羅漢道智によって余す所なく滅尽する時
五蘊もまた般涅槃の時に
余すところなく滅尽します
因縁滅を了知する智慧
因縁滅智

↑ここまで4年掛かったらしい

ttp://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/09/27/175858
上座部 パオ・セヤドー
因縁滅を了知する智慧 因縁滅智

世界の中には
因縁滅を了知する智慧まで逝っている阿羅漢もいると思うけど

日本には何人いるのかな?ということで ヨロ m(_ _)m
0593おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/07/12(木) 16:21:08.66ID:mXJcwMR0
 
>>592の補足として

上座部 パオ・セヤドー
ttp://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/09/23/065209

一歩一歩修行する事によって
非想非非想処まで到達する事ができます
その他の止禅業処の修行もできます
その後に観禅の修行をし
各段階における観智を証します

ttp://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/09/27/175858
因縁生滅智
刹那生滅智

ttp://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%92%E3%81%A0%E3%81%A4%E3%81%A1%E3%81%91%E3%82%93
(どこの誰が?)
戒から定(三昧)を生じ、定によって智慧を得、智慧によって解脱に到達し、解脱によって解脱智見を知る

戒・定・慧・解脱・解脱智見
布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若(の智慧も慈悲も)

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%8A%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%B3
ベトナム出身のティク・ナット・ハン
マインドフルネスの普及活動を行なっている

日本の場合は
余念を交えず、ただひたすら座禅する只管打坐?
0594神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/12(木) 16:50:58.56ID:F7SfuwLw
スマナサーラ長老の「聖者論」も面白かったです。
これ全部聴いてみてくださいね。MP3ダウンロード
「インドでグルと名前の名乗っている人のほとんど99,99インチキなんですね」
「インド人も言うんです」
「グルはいくらでもいるんですよ」
「本物はひとりもいやぁせんのです」
「だから、何で自分を宣伝するのかて、それが自我(エゴ)なんです」
いいですよ。スマナサーラさんの辛口は! 仲間だと思いました。

http://teruterulog.jugem.jp/?eid=420
0595おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/07/12(木) 16:53:41.84ID:mXJcwMR0
 
ttps://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/135d45345210d9384075a6349cf75349
大念住経(大念処経)
(「仮設としての」という意味で)
地の要素、水の要素、火の要素、風の要素がある
(最終的には、地水火風の微細な粒子も手放していく)

ttp:// mor fov.blog 79.fc 2.com/blog-en try-62.html
現代のミャンマーで行われているパオ流の「四界差別観」

ttp://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/07/18/061429
(上座部 パオ・セヤドーとかの場合は)
通常は、四界分別観から修行を始めなければなりません

(ちなみに
  おじゃるには難しいので全く四界分別できない
  それゆえに
  呼吸も 3秒も見れない おじゃる)

ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.jhana.htm
第一禅定を支える五つの要素
ヴィタッカ(尋)
どこかへ飛んでいってしまう心を集中対象である呼吸に戻してくる要素があります

五禅支
尋(ヴィタッカ)       - 認識対象把握
伺(ヴィチャーラ)     - 認識対象維持
喜(ピーティ)        - 喜悦
楽(スカ)          - 安楽
一境性( エーカッガター) - 集中

空海『菩提分法是れ法宝なり』ということで ヨロ m(_ _)m
0596おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/07/12(木) 17:07:34.37ID:mXJcwMR0
 
>インドでグルと名前の名乗っている人のほとんど99,99インチキなんですね

この論法でいくと
人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念
宗教・崇拝・信仰

科学崇拝・科学信仰

「仮設としての」という意味で
無明に依存しているのなら「99,99インチキなんです」

とりあえず↓一応、念のために

仏教は「他の宗教の信仰とは違う」という人も、いるかもしれないけど、それでも

スッタニパータ 1026
無明が頭であると知れ
明知が
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭を裂け落とさせるものである

(他の宗教の信仰とは違うものであったとしても、それでも)
仏教には、仏教としての
信仰と念いと精神統一と意欲と努力がある

という対機説法なので ヨロ m(_ _)m
0597神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/12(木) 18:25:42.38ID:qhaUUDox
591.そんな聖者にはなりたくない。
なんでか。
それは自己満足でしかないからである。
0598神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/12(木) 18:31:52.78ID:VVlkVpxE
仏教はひょっとしたら
カルトではないのか?

原始 小乗 大乗 密教と
0599ポッタン師
垢版 |
2018/07/12(木) 18:39:09.22ID:qhaUUDox
598.バカ宝珠がカルトである。
0602おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/07/12(木) 20:28:17.51ID:mXJcwMR0
 
プラユキ・ナラテボー
カトリック司祭ルベン・アビト教授に師事し…

キリスト系とかからの → (チベットも含めて)上座部系へ

という場合も結構あるらしいでつね

ttp://www.onedhamma.com/?p=6674
(キリスト系)
柳田神父とかは
ゴエンカ系そして 3.0とかもやっているようでつ

いま現在の崇拝・信仰を手放して超えて
他の宗教の崇拝・信仰に移る場合もあるかもしれないので
それゆえに
他の宗教の崇拝・信仰を批判しない方がよい場合もあるかもしれない

ということで ヨロ m(_ _)m

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88%E4%BB%8F%E6%95%99
チベット
(極力、幅広く?ということで)
根本説一切有部律の厳格な戒律に基づく出家制度から
大乗顕教の諸哲学や、金剛乗の密教までをも広く包含する総合仏教であり…

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%83%E3%83%94%E3%83%BC
ヒッピー(今までの?)人間生活を否定することを信条とし…
0603神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/13(金) 18:02:45.66ID:P2i+wOkk
仏教 の 「 無為 」 とは 何か ?  ── アビダルマ の 犯した 間違い、その@ ──
https://blog.goo.ne.jp/waikei2008/e/ed0c0059c84087c3ab1b06553b811c77

この和井恵流と言う人によると、
部派仏教で無為に対して「 永遠不滅 ( 恒常・不変 ) 」 という 解釈がされるようになり、お陰で無為を真我と同義であると錯覚するようになってしまったらしい。

本来は無為とは不可知であるはずなのに

>後世の アビダルマ論師たち が 解釈 してしまっているような、
>「 無為 」 とは、 〈 因縁によって造作されないもの。生住異滅の四相の転変がないこと 〉 であり、
>〈 人為的に作られたものでないもの。因果の関係を離れ、生滅変化しない永遠絶対の真実。真理。 〉 であり、
>〈 仏教では原因や条件 ( 因縁 ) によって作り出さたものでない、不生不滅の存在をいう。
>涅槃のことを 〈 無為 〉 というが、それは涅槃が生死輪廻を超越した、不変のものであることを表現した 〉 のである。

>… というような 諸々の 解釈 ( 定義説明 ) は、全て 、 誤謬見解 ( 迷妄 ) である ── と、断言 すること が 出来る のです。

となってしまったと。
0604神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/13(金) 18:57:49.18ID:P7t/e6lb
だから、
シンプルに、 ≪「有為」でないもの≫「作られたのでないもの」(→「生じさせられたわけではないもの」)
として言語化されただけで、特別なもの・ことではない、
(まさしく、無我が非我「an-attan、an-Atman」であるように。 ・・・a-sankhata、a-saMskRta )
と理解すれば、何の不具合も無い筈なんだけどね・・。

有為でない、という意味しか持たなかったものが、
いつのまにか『永遠なるもの』という性質を帯びてしまい、
終には、修行者が目指すべき本来の自我、真我と見做されていくw
 (なんという主人公、なんという本来の面目、なんという無位の真人w
  そうかぁ・・・臨済禅師も、実は神智学徒だったのカモナー・・・ )
0605おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/07/13(金) 19:55:02.93ID:7MVT7KRj
 
↓これでつかね?

ttp://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/rinzairoku1.html
臨済録:その1

今の喝は無位真人(本来の面目=真の自己)に収まりそこから出ている
  _  _  _

無住処涅槃を前提として
仏そのもの
仏性からの真如縁起をもって…

ttps://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1528362218/501
栄進師匠からの、お言葉
『本当の私、自分を探せ!』
  _  _  _

大乗 1.0の世界をもって
上座部 2.0を実践して逝く
3.0とかも

本当の私に・本当の自分に
如来我(仏そのもの)に戻る帰る

という対機説法で おじゃりますので ヨロ m(_ _)m

道元 普勧坐禅儀
(本来自性清浄涅槃に留まっているのなら)
そもそも仏法というものは
円満に全てのものにゆきわたっており
修行したり、悟り証したりすることもない
0606おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/07/13(金) 21:08:44.59ID:7MVT7KRj
 
>神智学徒だった?

ttp://soto-tokai.net/cgi-bin/kotoba.cgi?page=41&bl=0
正法眼蔵生死の巻より - 曹洞宗 東海管区 教化センター(禅センター)

この生死は、すなはち仏の御いのちなり

この生死は(無住処涅槃を前提としてる?)仏の御生命であり…

道元禅師も?
神(仏も含めて?)とむすびついた神智学(theosophy)?

日本土着の神祇信仰(神道)と
仏教信仰(日本の仏教)が混淆し
一つの信仰体系として再構成(習合)された神仏習合?

その当時の、インド・中国・日本とか(その地域)の

「…である」と定義することはできない
「…である」ものではない。という法もある

というような『想い』も一応認めて

日本土着の神祇信仰(神道)

というような『想い』も一応認めて、さらにその理解のうえで

その結果としての、本来自性清浄涅槃?

あるいは、無住処涅槃?
0607神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/13(金) 22:36:09.67ID:p25b8DgG
ブッダゴーサ(清浄道論Visuddhi Magga)
 
『業の行為者は存在しない。ただ、行為だけがある。 結果を受ける者も存在しない。ただ、結果だけがある。
単に諸法のみが生起する。これが真理であり、正見である』

ブッダゴーサはアートマンを認めてないのだろう
全ては現象であり縁起であり無常・苦・無我(空)であるとしている様子
0609宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/07/14(土) 12:30:10.21ID:sN5QjuP+
>>598
あなたは「カルト」の意味を分かっていってます?
宗教や霊的がカルトということではないですからね!
この日本では、「宗教」は公然のものとしてその信教の自由が認められています。
単に、「宗教」ということだけでは”カルト”などとはいわない。

ここに私が纏めたページがありますから、
それを読んでカルトの正しい意味を知ることです。
でないと、恥ずかしいことですから。

『宗教:
 神または何らかの超越的絶対者、或いは卑俗なものから分離され禁忌された神聖なものに対する信仰・行事。
またそれらの連関的体系。帰依者は精神的共同社会(教団)を営む。(広辞苑第4版)』

宝珠編著:「カルトの特徴とは」
http://houjugusya.web.fc2.com/cult.htm
0610宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/07/14(土) 12:32:38.22ID:sN5QjuP+
>>592
情報ありがとうございます。
おじゃるさん、さすが調べるのが早いですね。

で、この私が知りたいのは、
ただ単に「滅尽した (する) 」といった言葉ではなくて、
それは、いつ何処で誰々といた際の出来事だったのか?
そして、その時の周囲の状況や、最も肝心の瞑想者当人の状態
(特に肉体の外的状態の変化等々)についての詳細情報のことです。

何処かに、その情報や記録があるのですか?
0611神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/14(土) 12:33:15.37ID:OntF8gvs
うるせえよ。

改善が出来ないのがカルトだよ。
0612宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/07/14(土) 12:34:24.42ID:sN5QjuP+
>>607
同じことはヒンドゥーでも説くよ。
あなたが知らないだけのことだ。元々、アートマンは行為しないから。
マハリシを学び『ギーター』を読むならあらゆる疑問はすべて消散する。
単に、部派に洗脳された上座部仏教の注釈者に過ぎない人間によるアートマン否定論などに価値などない。
ゴータマ・ブッダ同様、本当に解ってる者はアートマン否定などしない。

 『人間の自我意識(アハンカーラ)がマーヤー(幻)である。その自我意識に幻惑された人は、「私は行為者である」と思うのだ。
自我という「私」が死ぬと苦しみは無くなる。もし【神の慈悲】によって、「私は行為者ではない」という自覚を得たのであるなら、
その人は生前解脱者になったのだ。その人にはもはや恐れるものなどない。』
(ラーマクリシュナ)

 『行為する、あるいはしないについて心を悩ませてはならない。汝自身を知りなさい。行為とは一体誰の行為なのか、観察しなさい。
それは誰のものなのか。自然に行動してみなさい。行為する者がいる限り、行為者は行動の成果を刈り取らねばならない。もし彼が自
身を行為する者であると考えなければ、彼にとって行為は存在しない。そのような人間こそは、世俗的生活を捨てた行者なのである。』
(ラマナ・マハルシ)
0613宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/07/14(土) 12:35:18.52ID:sN5QjuP+
 『心の実修を修めた者は、この世において善行と悪行の二つを捨てる。それゆえに、おまえは実修に専念せよ。(私欲のない)行為に熟達
することは、この(心の)実修にある。(2-50) 心の実修を修めた賢者は、行為から生ずる結果を捨て、生の束縛を脱して、わずらいのな
い境地(解脱)に到達する。(2-51) 
 行為はわたしに影響せず、また行為の結果をわたしは期待しない。わたしをこのように理解する者は、行為に束縛されることはない。(4-14)
 すべての行為が欲望や意図を離れた人、その行為が智恵の火で焼き尽くされた人を、智恵のある者は賢者とよぶ。(4-19) 行為の結果
に対する執着を捨て、常に心が満ち足り、他に依存しない者は、たとえ行為にたずさわっていても、なんら行為を行わない。(4-20)
期待を抱かず、心身を制御し、すべての所有物を捨て、身体のみによる行為(生理的行為または、なんら期待を求めない行為)を行う者は、
なんら罪過(輪廻)を得ることはない。(4-21) 
 行為の結果を期待せず、義務的行為をなす者、彼は遠離者サンニャーシンであり、実修者である。(6-1) パーンドゥの子よ、遠離サンニャーサとよ
ばれるものは(行為カルマの)実修ヨーガであると知れ。なぜなら、意図を遠離することがないならば、いかなる者も実修者ではないのだから。(6-2) 
 実修にのぼろうとする者にとっては、行為がその手段とよばれる。すでに実修にのぼりついた同じ者にとっては、静寂(行為の止息)が
(解脱を得るための)手段とよばれる。(6-3) なぜなら、感覚器官の対象や行為に執着せず、すべての意図を遠離するならば、彼は実修
にのぼった者とよばれるから。(6-4)
 自己の本性によって規定された行為を行う者は、罪過を招かない。(18-47) 』 
(宇野 惇訳『バガヴァッド・ギーター』)
0615宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/07/14(土) 12:39:59.18ID:sN5QjuP+
>>608
『イニシエーション』とは、
これは“文化人類学及び民俗学用語”であって
英語では一般に通過儀礼を意味するものとして使われます。別に神智学の専売特許ではありません。
西洋オカルティズムの系譜においては「秘儀参入(儀式)」を示すものとして、
これは近代神智学が発生する以前から西洋のオカルト世界においては広く使われてきたものです。
尚、神智学においては人類の霊的進化促成のためにハイアラキー(聖白色同胞団)の覚者方によって導入された内界での秘儀灌頂の儀式です。
1-2段階イニシエーションはMaitreya (仏教での弥勒存在)によって与えられ、3段階以降〜の高位階はサナート・クメラが司ります。

『アストラル』は、
パルケルスス(ヨーロッパ16世紀に活躍した医師にして錬金術・自然哲学者)から神智学へと流入した言葉で、
神智学においては情緒・感情の意味であり、普段は主に「アストラル体」(情緒エネルギーで形成される不可視の体/幽体)や
「アストラル界」(想念界/アストラル体が過ごす階層)などとして使われます。
間違いなく、この言葉を全世界に広めたのは神智学運動による功績であり、
現在では世界中のスピリチュアル組織において、
そして、ヒンドゥー関係においてもヨーガの説明のために導入されるケースが増えました。

とにかく、誤解を招くような発言は控えてもらいたいものです。
別に麻原教祖やオウム団体が神智学協会やその他の継承グループと交流したなどというものではなく、
彼が勝手に自身の教義を説明するための語句として神智学用語を多用したということ。
0616宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/07/14(土) 12:42:06.38ID:sN5QjuP+
>>603
だから、アビダンマそのものが間違いなのです。
まっ、実際には「有為」「無為」という語句そのものがもビダンマ考案のものなのですが....。
そのサイト著者に対しては、「一切(法)」の中へ勝手に無為/涅槃を含めたのが部派である
ということが理解されれば、別にそれですべて済む話だといいたい。
一切(有為)とは異なるものがあると説いたのもゴータマなのです。それが無為/涅槃なのです。
だから、『ウダーナ』経を読めばすべて済むことですから。

>>604
 『「無為法(asamskrta-dharma)とは不生不滅の永遠の存在とされているものである。無為の語は原始経典にも涅槃の同義語として
しばしば出ている。しかし原始経典で説く無為とは存在論的なものではなく、涅槃が生死輪廻を超えているとされるために、生死
にわたらないということを無為といったものであって、それは主観的な心情を述べたもので、客観的事実としてのものではない。
それを部派仏教では不生不滅の客観的事実としての存在として無為を考え、有為という存在に対するものとした。これは原始仏教
では説かない概念であって、仏教本来の立場を逸脱したものである。」(p145)

 「原始経典に涅槃の同義語として、無為、終極、無漏、真諦、彼岸、微妙、極難見、不老、堅牢、不壊、無譬、無戯論、寂静、
甘露、極妙、安泰、安穏、愛尽、希有、未曾有、無災、無災法、無瞋害、離欲、清浄、解脱、無住、州(灯明)、避難処、救護処、
帰依処、到彼岸などの語が掲げられている点から知られる。
 涅槃の語は仏教以前から存在したらしく、---中略---しかし涅槃と同じく生死輪廻を超えた悟りの境地として、パラモン教では
古くから不死(amrta甘露)の語があり、仏教でも不死は涅槃の同義語とされた。」(p170-171)』
(水野弘元著『仏教要語の基礎知識』新版第1刷/春秋社刊)
0620神も仏も名無しさん
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2018/07/14(土) 17:09:21.03ID:CJjaSqr7
「ある」と言っていないことを、「ある」という意図である、
と読み替えてる人間が、部派の考察を批判する『資格』も『権利』も『正当性』も、
どれ一つとして欠片も無いと思うんだけどねぇ・・。


いったいどれくらい厚い面の皮なんだかw   >>宝珠
0621神も仏も名無しさん
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2018/07/14(土) 19:12:52.48ID:+ejbjg6D
仏教には無為(法)があるから神も真我も肯定される。
仏教の無為(涅槃)は梵我一如と同じというような宝珠論には無理がある。

涅槃と梵我一如の境地は同じとする津田真一のような学者はもともと真言宗の住職だから
そちらの方向に流れてしまうというのは分かるけどさ。
0622神も仏も名無しさん
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2018/07/14(土) 19:14:20.18ID:+ejbjg6D
>>621
@仏教には無為(法)があるから神も真我も肯定される。
A仏教の無為(涅槃)は梵我一如と同じである。

というような宝珠論には無理がある。
0623宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2018/07/15(日) 01:09:55.88ID:5gBa5hGk
>>594
そりゃ〜ダメ導師や偽導師もいるでしょうよ。沢山...。
けれど、「殆ど99.99インチキ」などとは悪口もほどがある。
ラーマ・クリシュナのレベルならそんなことはない
(まっ、長老からみれば所詮はアートマンを口にする者はすべてインチキグル扱いなのだろうが?)。
ラーマ・クリシュナはNHK講義の教科書でも扱われるほどの世界的な評価の歴史的聖人の一人です。
受信料払いたくないからNHKは見てないのかな?
0624宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2018/07/15(日) 01:17:09.17ID:5gBa5hGk
>>621
>涅槃と梵我一如の境地は同じとする津田真一のような学者はもともと真言宗の住職だから

なるほど...。
では、水野 弘元氏< 日本のパーリ語仏教(原始仏教)の研究者にして駒澤大学総長を務めた同大名誉教授 >
の場合は、曹洞宗僧侶(長崎県天諫早市『天祐寺』元住職)だから、
“涅槃と梵我一如の境地はそれ程違ったものではない”という評価に留まった、と?

まっ、ヒンドゥーも学び神智学徒であるこの私からみれば、
津田氏同様に「涅槃と梵我一如の境地は同じ」ものとみますけれど。
しかし、そうではないあなた方が無理に同一だと見なす必要性はありません。
私があなた方にいいたいこととは、その可能性は残されるということと、
ヒンドゥーを有我論という理由で愚弄する行為は即刻、辞めるべきだということです。
それは無知に拠る仏教側の醜態的な恥晒しなのだから。
0625宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2018/07/15(日) 01:22:00.45ID:5gBa5hGk
>>604
>実は神智学徒だったのカモナー・・・

自分たちのミス(無知や誤解で勘違いしていたこと)を
神智学のせいにしたり、このわたしのせいにしたりしないでもらえます?
部派の教義を鵜呑みにして洗脳されていたのはあなた方の勝手ですよ
(ちなみのこの私も仏教を学んだ当初はあなた方とまったく同じだった。
「アートマンなどは無い」、「ヒンドゥーでは解脱できないから仏教が在るんだ」、
「唯一の真理は仏教だけだ」と見なしていた。けれどもそんな間違った偏見などは約三年で気付いて脱却している)。
仏典(の記述)を読んでなかったあなたがた自身が悪い。

私がすでに論証したように、
最初から、すべて仏典の教えに忠実でさえあれば何も問題がない。
「一切」(「一切法」とは、一切の諸法則についての教えとその中における人間の正しい生き方、及び修行の在り方を説くもの)
とは、「六根.六境/十二処」のこと。これは「五蘊」ということであり、「五蘊」は“厭い離れべき悪魔”であるとゴータマはいった。
「五蘊」は「無常」であり、「無常」であるものは「苦」(自分の思い通りにならないこと)である。
そして、「苦」であるものは「無我」(わたしのものではなく、わたしの本体でもない)であるといった。
“厭い離れべき悪魔”であり、「苦」だという「五蘊」(つまり、これが「一切」です)の中に、
仏教の目指すべき究極のゴールである「涅槃」が含まれる筈がないでしょう。
「五蘊」というのは、“五取蘊苦”とか“五盛陰苦” (五蘊/一切法に対する取著執着はすべて苦である-水野氏)として知られる。
そして「一切」は、“一切皆苦”(正しくは、「一切行苦」であるが、
この場合「行」は五蘊の「行蘊」に限定したものではなく一切法そのものを指している-水野氏)だといわれる。
“苦の滅”(苦悩から永遠に解放された安らぎの境地)である「涅槃」が、「苦」の根本要素である原因となる「一切」の中にある筈がない。
0626宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2018/07/15(日) 01:24:31.40ID:5gBa5hGk
仏教のすべてのスタートは“四門出遊”のエピソードにある。
ゴータマが人々の“病→死”“老→死”といった姿を目の当たりにして衝撃を受けて、それらの苦悩からの救済を求めたことに始まる。
であるから、苦を滅した安らぎの境地である涅槃が一切皆苦の中にあるわけがないのです。
涅槃はあくまでも、一切法における修行の最終結果としてあるものであって、
その境地は、“一切とはまったく異なるもの”です。
それは“没することなく(終わりがない/永遠)、依り所のないもの。生起せず、所縁のないもの”。
そして、涅槃は「無為」(「有為」ではないもの)であるからこそ「有為」(現象界)からの“出離を覚知する”と教えている
(当たり前のことですが、同じものならば出離を覚知しない。異なるからこそ出離を覚知する『ウダーナ』8.1-8.3)。

“涅槃とは無為”であり、
「無常・無我・無自性・空」(現象界の諸性質)ではないことが明らかになったのならば、
元々、現象界を超越しているアートマンを否定する根拠にはならないのは自明の理です。
仏教においては確かに、ヒンドゥーのようなアートマンは説かないが、
仏教が求めるべき“真実の自己”(Vin.Maha^vaggaT,13.p.23)、本来は煩悩に拠らない“心性清浄である自己”(AN 1.6)、
そして、『煩悩を滅して死の領域を超えた真人は「わたしが語る」と言ってもよい』(SNT,3-5 )
と、説かれたゴータマの教えがアートマン性質の核コア部分に相当することは素直に受け止めなければならない事実だということ。
従ってつまり、最終的な結論としては、仏教ではヒンドゥーのようなアートマンを説いていないからといって、
彼らの実体験に基づくアートマンについての教えを「妄想だの」、
「在る筈がない」だのということはできない(そういう発言は恥ずかしいから辞めなさい)。
まして、ゴータマが「アートマンは無い」といったなどというのは、
自分たちの無知からくるまったくの妄想に過ぎないことを恥じて早く自覚しなさい、
ということです。
0627宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/07/15(日) 01:25:27.69ID:5gBa5hGk
あなた方が悪いのではなくて、
あなた方は部派教義に洗脳されしまった云わば被害者なのです。
その自覚が大切なのであり、心を落ち着かせて事実に対して素直になる必要があります。

さて、今でも麻原に拠って洗脳され続けている後継団体『アレフ』の現信者たちと、
あなた方では、どちらが先に洗脳が解けて真実に目覚めることができるでしょうか?
0629神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/15(日) 07:42:38.45ID:E1Kkvld8
citta = 自己、自我 とか、 citta = 真我、ましてや、無為涅槃だとか、
御笑い種だろw

cittaは、縁起性の諸法じゃないのかい?
(真我や無為涅槃は、制御されるようなものなのかい?)    >>心性本浄
0630ポッタン師
垢版 |
2018/07/15(日) 10:40:28.90ID:AK3eb011
バカ宝珠はカルトの信者である。バカだからして、自分では理解できないのだよ。
0631神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/15(日) 12:49:09.22ID:M/qkdtD9
あいからず、宝珠は我田引水が好きだなあ・・・・。
0632神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/15(日) 17:12:35.04ID:YRLEDIGi
諸行無常
諸行皆苦
諸法無我
0633神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/15(日) 19:25:06.55ID:pO570utV
>>624
>では、水野 弘元氏< 日本のパーリ語仏教(原始仏教)の研究者にして駒澤大学総長を務めた同大名誉教授 >
>の場合は、曹洞宗僧侶(長崎県天諫早市『天祐寺』元住職)だから、
>“涅槃と梵我一如の境地はそれ程違ったものではない”という評価に留まった、と?

(正法眼蔵の)「仏性」で道元は「世界が1つの自我によって成り立っているというのは、外道の邪見である」と言います。
これはヒンドゥーイズム(インド思想)のブラフマン(真我)の否定です。
また道元は「仏性のことばを聞いて、修行者達の多くは、外道の唱えた永遠の我のように誤って考える」とも言います。
これもブラフマン(真我)やアートマン(真我)の否定です。
https://blog.goo.ne.jp/anandabhavan/e/f841f2ac08de31220754546e08838705

上記引用文のソースとなる正法眼蔵の仏性の章(↓)
http://www.dogen-shobogenzo.com/bussho2.html

その後曹洞宗は密教化してきてるし、
また中興の祖と言われた井上義衍禅師の思想も無我論者でありながらもどこか宇宙意識のようなものを認めているようでもあり、
道元の頃とは違ってきてると思う。
水野氏もその流れの中にいるのかもしれない?
0634宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/07/16(月) 05:09:49.79ID:G3+T2RWJ
>>633
水野氏が何で密教化なんですか?
都合が悪いと「密教だから」ですか???

水野氏は、パーリ語仏教(原始仏教)の日本を代表するエキスパートですよ。
対する「道元」(日本仏教の大巨人としては評価しますけれど)は、まだ近代仏教学を知らない鎌倉仏教の時代の方。
五時八教の支配下にあって原始経典である阿含経を小乗扱いしていた時代であり
(天才道元は阿含の価値に独自で気付いた形跡はあるが...)、
当然、すべて部派仏教のアビダンマ教学に洗脳されていた人間の一人ですよ。
その道元の説くアートマン否定意などには正論などは何処にもないのです。
そんなもの無価値ですから。
0635宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/07/16(月) 05:19:12.43ID:G3+T2RWJ
>>628-629
貴重な学生時代のテキストの開示をありがとうございます。
とても真面目で熱心に勉強されていたことが伺えてとても嬉しく思いました。

 私の感想と理解としては、ご指摘の通りで確かに「citta」(心)では、自己の究極の本性としての真我(アートマン)を示すものとは
いえないでしょう。けれども、仏典というのは意外と使用するその言葉はかなり広義的で曖昧だったりもします。第一、仏典では自己
(わたし)を意味する言葉そのものが、すべて「アートマン」なんですから。
 原語はパーリ語でアッタン(attan)、サンスクリット語ではアートマン(&atilde;tman)ですが、幅広い自己の状態を示す明確な使い分けがな
く何でもアートマンです。日常の会話で使用されるごく普通の意味合いでの仮和合的自己もアートマン、形而上学的な意味合いの自己
でも、ウパニシャッドの究極的存在でもアートマン。
 だから、仏典に出てくるアートマンについては、それがどのような自己のことを指しているのかを前後の文脈から読み取らなければ
ならないのです。私はそのことを、セブンと対話を始めたばかりの9年以上も前にそのことを指摘しましたよね。けれども当時のセブ
ンはそのことをあまり取り合わないようでした。「アートマンなどある筈がない」という決め付け理解のあなたにとっては、さして重要
なこととは見なされなかったのでしょう...。
 しかし、これは非常に重要なことですから。でないとそれが、日常の自己の否定なのか? またはどのアートマンを否定し、或いは肯
定しているのかも何も見えなくなるからです。
0636宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/07/16(月) 05:19:57.49ID:G3+T2RWJ
 因みに仏教では、異名同義として「心」(citta)、「意」(mano)、「識」(vimm&aacute;&ccedil;a)の三つの語が用いられているところから、「citta」
の語そのものに奥深い意味を含ませているものと理解できます。たぶん、微妙なニュアンスとかそれぞれの意図によってこれらの三つ
の語を使い分けしてるのでしょう。
 ユング心理学では人間の意識レベルを、「表層意識」、「個人的無意識」、「集合的無意識」、「類心的領域」という段階によってその意識
の深さを説明します。「citta」にも本当は、「識」の中の最奥深層域である阿頼耶識(魂)の意味を含めて語る場合も当然あるのだろうし、
その辺は仏典というのは実に曖昧ですよ。

で、結論なのですが、
道の修行において自己の心(citta)を制御することなく、
真我(アートマン)や“仏教の説く真実の自己”でもいいですが、
それが顕れることができるとする教えが何処かにあるのならばどうぞ教えてください。
私はそんな教えは、仏教にもヒンドゥーにもまったく皆無だと思っていますが...
制御すべきは当然、日常のこの心の状態のことですよ! 真我が顕れるのはその結果ですから。
〜如何ですか?

水野氏は、
あなたの学んだその大学総長にして名誉教授。そして、宗門の大先達ですよ!
是非、心を開いて水野氏の言葉に向き合うことを私はお薦めしますが...。
0637宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/07/16(月) 05:40:16.64ID:G3+T2RWJ
さて、
次はどうしたら日本仏教界から“唯物論(唯物僧侶)”を排除できるか?
そして、霊供養を信じてない僧侶による詐欺供養、詐欺法要(詐欺の通夜葬儀)を駆逐できるのか?
でもいきますか!!!
0639神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/16(月) 07:18:04.91ID:X6zgjNum
>>636
>因みに仏教では、異名同義として「心」(citta)、「意」(mano)、「識」(vimm&aacute;&ccedil;a)の三つの語が用いられているところから、「citta」
>の語そのものに奥深い意味を含ませているものと理解できます。たぶん、微妙なニュアンスとかそれぞれの意図によってこれらの三つ
>の語を使い分けしてるのでしょう。

独自解釈すごいな
都合よく解釈して自己正当化するのが宝珠流アビダルマだな
0640神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/16(月) 08:26:08.21ID:D3timmXP
隠居や在家とやったみたく、一言一句添削しなきゃならんかねぇ・・・w(呆
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