おまけ

(1) 以上成立史的に考察してみたが、禅定を「止観」というかたちで実践することは、けつきよく仏教特有であつてインドの他宗教には見られないところである。
(2) いままでは差別相から無差別の境地に入ることが仏教の本質であると考えられていた。
しかしそれはまさにシャンカラの強調したところである。
禅もそのようなものとして説かれていた。
しかし無差別に滞つていたのでは、実践を成立させ得ない。
そこで止にもとついて観、すなわち差別を立てて観ずる(visesena passati) ということが意義をもつて来る。
「観」という字ははなはだ漠然としていて意義内容がはつきりしないが、「止観」の「観」は仏教の実践のために非常に重要な意味をもつて来る。