>>48 おぬしはなぜわしの問いに答えないのじゃ?
 他人に求めるならばまず自らの名称を明らかにするのじゃ。
 そうでなければおぬしは永遠に「知ったかぶりをして鬼和尚に論破されたジャンキー」なのじゃ。

 2  おぬしは戒定慧とは修行が悟るために修めるべき絶対必要条件と考えているようじゃのう。
   実際には既に智慧や強い意志があれば悟れるのじゃ。
   戒定慧とは絶対必要条件ではなく勧行のための項目に過ぎないのじゃ。
   そうであるからアングリマーラのアヒンサーはお釈迦様に会って直ぐに悟りを得られたのじゃ。
   

 3 中村元は初期にはヴィパッサナーという文字が無いと語っているだけなのじゃ。
   そこから観察がディヤーナと呼ばれていたとするのは無理なのじゃ。
   ディヤーナとは集中による変性意識状態であるからのう。
   はっきりとヴィパッサナーがディヤーナの一部であると謬見であっても書いていない限り、おぬしの勝手な推測に過ぎないのじゃ。
 
   おぬしの論理では定という言葉から後に観が生じたから観はその一部といいたいのじゃな。
   木を摩擦すれば火が生じるが、火は木の一部ではないようにそれから起こったものが全てその一部とは限らないのじゃ。
   言語の内に含まれていたからその一部ということもないのじゃ。
   石が袋の中に入っていても石が袋の一部ではないようにのう。
    
       
 4 戒を破り、嘘をつくおぬしがそう語るならば詐称ではないことになるのじゃ。
  既に悪行の報いが心身に蔓延しているのじゃ。
  
 おぬしが正しく反論するならば観が定の一部であると書かれた経典などをかかげて反論するべきなのじゃ。
 六回目じゃな。
 
>>49 その話に中村元の無知が現れているのじゃ。
 お釈迦様は初期から四諦を説いているのじゃ。
 それを思想として捉えているからそのような間違いが起こるのじゃ。