以前はチベット仏教のアジャリとか名乗っていたのじゃ。
チベット側に否定されて取り下げたのじゃ。
英語とかはできるが少しおかしいようじゃ。
>>408 何を書いているのかわからんのじゃ。
なぜ頑なにオウムについて答えないのかもわからんのじゃ。
ぼったんでさえ真実を答えたというのにのう。
恐ろしいことじゃ。
>>417 見えないのじゃ。
>>482 おぬしも天台と同じ過ちを犯しているのじゃ。
もともと天台の止観から考えたことかもしれんがのう。
天台の止観では数息観などの止の瞑想が観に分類されているのじゃ。
それは止観の観ではないのじゃ。
止の瞑想の中のものなのじゃ。
中村元の2の論文は正にそれを言っているのじゃ。
中国語の観では数息観の観と止観の観が同じで在る故に、数息観等の止の瞑想が止観の観と思われてしまったのじゃ。
それは止観の観ではないと中村元は言っているのじゃ。
「それは、あくまでも「止」の働きを持ったものであり、「観」ではないことに注意が必要です。」と言っているのじゃ。
観察はそもそも最初からあったのじゃ。
ただヴィパッサナーと名づけられていなかったのじゃ。
ウダーナヴァルガの観察の章に観察は書いてあるのじゃ。
観察の章において観察を教えるのは当然なのじゃ。
そこではこの肉体を見よと何度も教えているのじゃ。