そのようなことに反証する必要も無いのじゃ。
そもそも以前にはあったとか無かったとか議論する意味も無いのじゃ。
止観が後代に成立した言葉だとしてもわしの提示した論により今定の一部ではないことは明白なのじゃ。
おぬしはそれに有効な反論さえしていないのじゃ。
止観が定の一部という珍説はおぬしが騙ったことであるから、弁証法によりおぬしが証明できなければ邪説として退けられるのじゃ。
わしに証明義務は無いのじゃ。
そして今少しも証明しては居ないのじゃ。
よって止観が定の一部であるという珍説は退けられ、おぬしは完全に論破されたのじゃ。
よかったのう。
それはおぬしにとっては福音なのじゃ。
なぜならばもしその珍説を世間で披露してしまったならば、おぬしは珍説を騙る者として笑いものになり、恥をかく所であったのであるからのう。
わしに帰依して、五体投地をすることを許すのじゃ。
これからは戒を守り、嘘とか悪口はやめるのじゃ。
おぬしに真実の教えを説くわしは真の和尚と言えるのじゃ。
>>252 いなかったようじゃ。
智慧が突出していると孤独になるのじゃ。
アルジャーノンがよくしっているのじゃ。
花束をあげるのじゃ。
>>284 断定しては居ないのじゃ。
質問しているだけなのじゃ。
麦と名乗るものは知らないとしてそれに絶対に答えないのじゃ。
日本中に報道された事件の当事者を知らないとは実に不可思議なことじゃ。
オウムの者も実に哀れな洗脳者なのじゃ。
ウソでも答えればよいのに、洗脳されているから絶対に答えることは無いのじゃ。
おぬしも聞いてみるとよいのじゃ。